潮風公園の福田繁雄作品(2)

 19日に同じタイトルで書いた福田繁雄の作品「潮風公園島の日曜日の午後」(1995)が妙に気になり、探ってみた。私は「福田の作品が誰も行かない海辺の公園にひっそりと存在している。なぜこんなところにこんな作品が、と訝るしかない…今のところ私の独り占めだが、…」と書いたが、現在作品が置かれているのは「水の広場公園」の片隅。この公園は同じ都立の公園だが、「潮風公園」ではない。

 作品は正面から見るのと横から見るのとでは、全く別の形に見えてしまうトリックアートで、正面からはジョルジュ・スーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」の一部と思われるものが見え、横からはピアノの演奏シーンが見える。ところで、グランド・ジャッド島はフランス・パリ西部のセーヌ川の中州にある島。台場も都心から近く、グランド・ジャッド島と似た場所にある。

 さて、肝心の潮風公園だが、2020年のオリンピック・パラリンピックに向けて液状化対策と護岸の工事中。潮風公園ビーチバレーボールの会場になる。彫刻が置かれていた場所も工事区域に入っていて、そのため作品は水の広場公園に一時的に移されたのだと思われる。お蔭で暫くはほぼ一人占めの状態で鑑賞できるという訳である。

 ゆっくり鑑賞して最初に気づくのは、二つの視点(正面と真横)以外はまとまった姿に結実せず、中途半端な位置にいる鑑賞者を失望させてしまうのではないかということ。2次元の多義図形の3次元版がこの作品の意図なのだろうだが、本当に3次元の多義図形になっているのかと問われると心許ない。3次元の多義図形がどのようなものかの明確なイメージを私たちはもっていないようである。

 さて、新印象派のスーラは点描画で有名だが、彼の代表作が「グランド・ジャット島の日曜日の午後」(1884-1886)。この作品は1889年以降に画布から枠を外し、赤色と青色の点描による縁が加筆されたことが知られていて、パリ北西、セーヌ河の中央にある細長い島「グランド・ジャット島」で人々が夏の余暇を過ごす情景を描いた作品。点描表現による自然風景の描写にその特徴がある。

 スーラには「点描の知識がいかに知覚を豊かにするのか」、福田には「知覚は知識にどのような貢献をするのか」といった問いを投げかけてみたい。だが、そのような問いかけは知覚(や感覚)と知識(や情報)の間の関係がどのようなものかを一層曖昧にしてしまう。知覚と知識は互いに他を助け合う関係にあるのか、緊張したただならぬ対立関係にあるのか、二つの問いの立ち位置は正反対だからである。

 「学習できる知識」と「本能としての知覚」という風に対比してみると、知識と知覚は根本的に違うことを示唆していることがわかる。一方、「知識の学習と知覚の学習」という表現は、いずれも学習によって獲得されることを意味している。さらに、知覚は母国語の習得、知識は第二外国語の習得に似ているなどと言われると、成程と思いながらも、知覚と知識の違いは明瞭ではないということにも納得できてしまう。新印象派のスーラの点描画は知覚が色についての知識によって再構成できることの実践であり、知識による知覚の再構成である。また、福田のトリックアートは知覚する視点を巧みに使った複数の知識の表現になっている。

 このような哲学談義は忘れ、それぞれの作品をじっくり味わうのが至福というもの。知識も知覚もそれを享受し、消費するところに意義があるのだから。

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