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まずは大きいもの、次は小さいもの、そして…

 子供は大きなものに惹かれ、憧れ、そして、恐れる。大人、山、川、樹木等々、周りには自分より大きく、強いものがあり、それが大人になっても畏敬や恐怖の対象となってきた。神は巨大な力をもち、大雨、大風、大雪、雷は生活を根こそぎ奪うものだった。大きなものへの憧れは巨大な建築物や像を生み出し、地球を越えた宇宙にまでそのサイズを広げてきた。望遠鏡の発明は世界のサイズを拡大し、私たちの空の風景は一変した。

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(ギーザのピラミッド)

 人には大きなものだけでなく、小さなものへの関心もある。その関心が飛躍的に増大するのは顕微鏡の発明からである。細密画やミニチュアへの好奇心を遥かに越えて、顕微鏡はそれまで見ることのできなかった微小なものを見せ、世界をミクロな方向に拡大していった。物質の構造、身体の構造が化学的に解明されるために電子顕微鏡がつくられ、ミクロなスケールはさらに拡大する。

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ガリレオによる月の満ち欠けの観測図)

 望遠鏡と顕微鏡が提供してくれる像は単に大きい、小さいだけではなく、見えなかったものを見えるようにしてくれる点にある。盆栽はミニチュアであるが、ミクロなものはマクロなもののミニチュアではない。盆栽はミクロな風景というより、マクロな風景のパーツに過ぎない。風景を盆栽にすれば、それはジオラマであり、実際の風景の単なる縮尺でしかない。

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(フックの描いたノミ)

 望遠鏡、顕微鏡、そして、その次はそれを見るセンサー、つまり、カメラの開発である。私たちの眼の代わりのカメラの性能が良くなり、信頼度が向上し、正しいデータや像が手に入ることになった。情報は私たち抜きでも手に入るようになり、それを活用するロボットが動き出している。真偽の判断、推論、結論の活用が一連の流れの中で組み合わされ、データの入力から正確に処理される。そこに私たちの意識や信念、推測などは必要ない。つまり、私たちが直接知る必要がないのである。ロボットは私たちの代わりに(私たちのやり方で言えば)知り、知ったものを使って仕事をするのである。

 このような歴史が何をもたらしたかは私が話す必要などないほどに自明で、現在の世界と生活そのものがその成果だと言っていいだろう。むろん、問題も生み出してきた。それら問題の中の些細な一つに情報と知識の違いがある。二つを峻別する手立てを私たちは知らない。私たちは二つを識別する知識をもっていないのである。だったら、情報と知識はほぼ同じものと見做してしまおう、というのが現在のごく普通の態度である。  だが、二つの違いは最低限必要だと主張する人たちのために何か方策が必要である。それは「信念(belief)」をうまく使うことである。知る(know)と信じる(believe)の違いが伝統的に強調されてきた。「人が知る」とはどのようなことかを定義しようとして行き着いたのが、「正当化された真なる信念」が知識(知ること)である、というものだった。ロボットは人ではない。人の知識には人の信念が必要だが、ロボットの情報は信念とは関係がない。ロボットは信念を必要としない。だから、人の場合の「信念+真理+正当化=知識」と、ロボットの場合の「入力データ+真理+正当化=情報」とを区別できる。そして、これが情報と知識の違いである。大した違いではない、というより、違いなどないのではないか、と思う人がほとんどだろう。信念と入力データは表現の仕方、あるいは語彙が違うだけで、実質的には違いがないというのが大方の意見である。

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(Data, Star Treck: The New Generation)

 このような話は実はあちこちにある。情報はできるだけ意識から離れたところで考えたい概念、一方知識は認識論の中核そのものであり、私たちの意識としっかり結びついている。情報についての科学は認識論や知識論を嫌う。嫌う理由は明らかで、埒があかないことしか議論しないのが認識論や知識論と思われているからである。学生たちに現代の教養を与えるためには、認識論や知識論から情報理論、情報認知理論へシフトすべきなのだと考えられている。

 さらに、経験的な知識が改訂可能なもの、暫定的なものであることを認めるなら、入力データと信念の間の違いはますますなくなる。つまり、知識と情報は紙一重なのである。この結論に納得しようとすれば、マクロな世界とミクロな世界に拡大した私たちの知識は私たちの直接的な知覚によってではなく、センサーとデータ処理の結果であり、そこには私たちが見て信じたものなどないのである。古い時代の知識は新しい知り方とその結果に置き換えられ、それを情報と呼ぶなら、知識は情報の一部だと考えて構わないことになる。科学についての知識、情報についての知識も高次の情報と見做すことができる。