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「これはパイプではない」

 丁寧に描かれた一本のパイプ。そして、その下に「Ceci n'est pas une pipe(これはパイプではない).」と几帳面に手書きされている。このルネ・マグリットの絵は、一般的には「パイプの絵は本物のパイプではなく、絵に過ぎない」のだから、「絵と現実を混同してはならない」と解釈されている。だが、絵のパイプが本物でないのは自明であり、マグリットが今更あらためて描くほどのことでもない。どんな絵も単なる絵であり、所詮その絵が描く対象とは違うというのでは、作者マグリットに余りに失礼というものである。

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 ミシェル・フーコーはこの絵を次のように解釈する。彼はまず表象(re-presentation)を「造形的表象」と「言語的表象」に分ける。造形的表象は形態の類似にもとづくもので、「似ている」ということを利用して一方が他方を代理する。それに対して、言語的表象は似ていないことによって一方が他方を代理する。「パイプ(pipe)」という文字は、パイプには似ていない。似ていないもの同士が結びつくことが文字と対象との関係であり、ソシュールの「シニフィアン」と「シニフィエ」の「恣意的な」関係である。

 絵画における造形的表象は「断言」である、とフーコーは言う。フーコーによれば、絵画は沈黙したまま「あなたが見ているもの、それはこれだ」と断言する。マグリットの絵は、そうした「沈黙の断言」を言語的表象が否定している。そうすることによって、観る者を混乱に陥れるのである。絵はパイプだと断言しているのに、書かれた文はそれを否定している。フーコー曰く、「彼の絵画が何よりも執着しているのは、表記的な要素と造形的な要素とを注意深く残酷に引き離すことである。」

   そもそも「Ceci n'est pas une pipe.」の「Ceci(これ)」は何を指示しているのか。普通は「パイプの絵」だと考えるが、必ずしもそうとは限らない。例えば、「これ」は「文そのもの」でもあり得る。つまり、この文は自己言及文という訳である。すると、当然ながら、文字は「パイプではない」。パイプに似ていない文字を私たちは「パイプ」と読み、そしてパイプというものを思い浮かべる。似ていない文字の方をパイプに似ている絵よりも信頼するのである。その証拠に、「このパイプは絵であって本物のパイプではない」という解釈は、文字の方をより信頼し、絵の方を疑うことを意味している。つまり、私たちが言葉に支配されている証拠だと考えることもできる。

 このようなフーコーの分析は洒落ていて、極上の知的快感を与えてくれるのだが、私には何か嘘っぽいのである。まず、表象は二つだけでなく、もっとたくさんに分類できる。「音楽的表象」や「数学的表象」等々、実際はもっと複雑なのである。言語的表象は似ていないことによって一方が他方を代理する、と誇らしげに言われるが、肉と肉の匂いは似ていなくても一方が他方を立派に代理している。異なるものの間の関係は記号的なものだけではないのである。「絵はパイプだと断言しているのに、書かれた文はそれを否定している」という風にマグリットの絵を観ることがいつも正しいとは限らない。絵と文が一つの作品なのだから、マグリットの絵は私たちに文脈、あるいは枠組をまず提供する。描かれている順番ではなく、描かれているものと指示代名詞とがその文脈にあるとなれば、観る作法は指示代名詞が指すのは描かれているものだと教えてくれる。描かれているのがパイプでなく、煙管で、「これは煙管ではない」と下に描かれていたとしよう。それを観た子供に「これは煙管ではない」が真か偽か判断できるだろうか。煙管を知らない子供の無難な結論は「描かれている物体は煙管とは呼ばれないのだ」ということだろう。結局、それが一体何なのかはその子供には不明のままである。

 フーコーの分析から一歩進めるにはもっと初歩的な分類をし直してみよう。以下に登場する「パイプ」、「リンゴ」、「X」、「Y」については、それらが何かを知っているものとする。

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パイプの絵と「これはパイプではない」

「これ」がパイプを指すなら、矛盾。あるいは、「これ」がパイプを指すなら、「これはパイプではない」は偽。

リンゴの絵と「これはパイプである」

「これ」がリンゴを指すなら、矛盾。あるいは、「これ」がリンゴを指すなら、「これはパイプである」は偽。

パイプの絵と「これはパイプである」

「これ」がパイプを指すなら、両立。あるいは、「これ」がパイプを指すなら、「これはパイプである」は真。

リンゴの絵と「これはパイプではない」

「これ」がリンゴを指すなら、両立。あるいは、「これ」がリンゴを指すなら、「これはパイプではない」は真。

パイプの絵と「これはリンゴではない」

「これ」がパイプを指すなら、両立。あるいは、「これ」がパイプを指すなら、「これはリンゴではない」は真。

リンゴの絵と「これはリンゴである」

「これ」がリンゴを指すなら、両立。あるいは、「これ」がリンゴを指すなら、「これはリンゴである」は真。

パイプの絵と「これはリンゴである」

「これ」がパイプを指すなら、矛盾。あるいは、「これ」がパイプを指すなら、「これはリンゴである」は偽。

リンゴの絵と「これはリンゴではない」

「これ」がリンゴを指すなら、矛盾。あるいは、「これ」がリンゴを指すなら、「これはリンゴでない」は偽。

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Xの絵と「これはXではない」

「これ」が文を指すなら、この文は正しい。

Xの絵と「これはYである」

「これ」が文を指すなら、この文は正しくない。

 さて、ここからが肝心な話。両立しない、矛盾する風景を一つの画面として見ることができるのだろうか。私たちは「Aであり、かつAでない」という形の文を容易につくることができる。「Aであり、かつAでない」状況を物理的に実現することはできないが、言葉で表現することはできる。では、絵画や写真としてそのような状況を描くことはどうだろうか。エッシャーのだまし絵やトリックアートは矛盾する風景を描いていないのか。3次元の世界ではあり得ない、矛盾する風景が2次元の世界に描かれている。3次元の世界では矛盾することが2次元ゆえに描くことができるのである。「これはパイプではない」は絵と文の混合で、それぞれの主張が矛盾する主張になっている。エッシャー風なら、視点を変えて観ると、パイプとパイプでないものが見えることになるのだが、絵と文で同じ効果を出そうというのがマグリット

 通常ならば、絵と文を関連付け、一つの文脈を設定して理解しようとする。ceciのような指示代名詞を使う場合は特にそうである。いきなり指示代名詞が出てくるような使い方は文法違反。ある文脈の中で使われることによって、何を指示するかが決まってくるのが指示代名詞。フーコーは絵の暗黙の断言という特徴を強調したが、指示代名詞を含む文も同じように文脈帰属という特徴をもっている。「これは本です」という文だけでは「これ」が何を指すかわからないが、それでも(文脈を暗黙の裡に想定することによって、その文脈内にある)近くの本を指すと考えられている。