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生死:持続可能性と断続可能性

(連休に羽目を外して)

 持続可能性(sustainability)は生物多様性などと並んで、典型的な擬似科学概念。システムやプロセスの持続によって、生物的なシステムがその多様性や多産性を限りなく継続できる能力が持続可能性である。さらに、人間の活動、特に科学技術を用いた活動が、将来にわたって持続できるかどうかを表す概念として用いられ、経済、政治、文化といった種々の分野で使われている。

 こんな堅苦しい説明は脇に置いて、流行語「持続可能性」を別の観点から眺め直してみよう。すると、まず目につくのは、何とも利己的な概念だということ。自らの持続のために何をすべきか(あるいは、Aの持続のためにAは何をすべきか)という発想は利己主義そのもの。他者のために自らの命を犠牲にすることも、自らが属する集団の持続に益するということが持続可能性の大きな特徴。持続可能性を希求することがあちこちで叫ばれる昨今、他者の持続可能性ではなく自らの持続可能性を求めることが利己主義的であることを忘れているのではないだろうか。

 昔ハンス・ドリーシュという生物学者がいた。後に哲学者になるのだが、その彼が最後の生起論者だった。今は誰も生命が他のどんなものにも還元できない原理的なものだとは思わない。生命は原子の組み合わせによって実現できると思われている。残念ながら、まだその生命の合成には成功していないが、部分的に生命現象を操作することが可能になってきている。こうして生命は派生的な対象となり、それゆえ、持続するだけではなく、断絶することもごく自然なものとなった。

 生死などない世界では集団や個体の区別は本質的ではない。だから、進化はない。    

    生死のある世界では集団と個体の区別は重要である。だから、進化がある。

 個体の生死と集団の生死は別々の事柄である。だから、進化がある。

 生死という常識を表現し直せば、持続と断続(あるいは、現状の維持と打破)。こうなると印象は随分違ってくる。想像力を発揮して、持続可能性の反対概念を断続可能性と呼ぶとしよう。断続できることが生物のもう一つの能力。毒性の強い細菌やウイルスが断続されないなら、それは細菌やウイルスには持続可能な好ましい能力だが、人間にとっては厄介な能力。持続可能性と断続可能性は対になってこそ、生物世界を正しく理解できるのではないか。持続と断絶の関係は見方を切り換えるようなもので、持続が可能なためには多くのものを断絶しなければならず、断絶するためには別の多くのものを持続させなければならない。死と生、裏と表、陰と陽のような関係にあるのが持続と断続である。

 宗教、倫理、習慣、伝統は生死をもつシステムの理解とその存続、断続に何か役立っただろうか。どれも決定的に役立ったとは言えないことが歴史によって証明されている。自然環境の破壊、国家間の戦争、科学技術を使った武器の開発等々、それらはむしろ断続可能性こそが主役だと言っているような出来事である。だが、それに失望しても仕方なく、むしろその現実を利用するしかない。進化や歴史に事前の法則はなく、偶然が入り込んだ変化だと割り切ることが現在の姿。

 何もしないのではなく、好きに何でもできることを自由に使って動き回ってみることが、選択の存在を認めることに繋がっている。そして、選択が働くならば、およそどのように働くかを推測することが私たちにできる。