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最も退屈な科目:Logic in the liberal arts

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ボローニャ大学の講義風景、1350年頃)

 ギリシャ哲学の伝統を引き継ぎ、20世紀初頭まで知識の基本と見なされていたのが自由七科。具体的には文法、修辞学、論理学の「三学」(trivium)、算術と幾何、天文学、音楽の「四科」(quadrivium)のこと。ついでながら、哲学は自由七科を統治し、さらに神学の予備学とされた。だが、これらは既に過去の遺産。最近では語学を含む基礎教養的な科目がリベラルアーツと呼ばれ、退屈なものの代名詞ともなってきた。中でも論理学は退屈の極みと信じられてきた。だが、「信じる(believe)」こと、つまり、信念(belief)と事実(fact)は異なる。論理学は19世紀後半から大化けし、数学的に形式化され、それがコンピューターの言語となり、私たちの社会を支えている。これが論理学についての歴史的事実。

 論理とは考えるときの規則であり、それに違反すると考えることができなくなるもの。文法は言語の規則であり、論理は思考の規則であるとまとめると大雑把過ぎるが、数学の証明問題を解くときの論証は論理規則を組み合わせて使うことである。退屈な論理についての刺激的な問いを考えてほしくて、次のような問いをつくってみたが、見ただけでウンザリという人が多いのは承知の上でのことである。だが、こんな問題を今時分の新入生にやらせて、新緑の中で考えさせたいものである。

  次の四つの命題の間の論理的な関係を明らかにしなさい。

(1)どんな人にも信じる神がいる。

(2)誰もが信じる神がいる。

(3)どんな人にも好きな人がいる。

(4)誰もが好きな人がいる。

*見かけとは違って、実はとても哲学的に厄介な問題なのである。

 「信じる」と「好く、好む」の動詞の違いを考えてみてほしい。誰かが信じている内容をその誰かから聞くことはできるが、その内容が正しいかどうかは聞いただけでは不明である。誰かがAを好きかどうかは調べようとすれば色んな仕方で調べることができる。これら二つの違いは、一方は主観的な信念、他方は客観的な事実、と呼ばれてきた。主観的な信念は意識できるが、真偽を実証的に決めることはできない。

 (4)から(3)が導出できる。(4)を仮定すると、論理規則を使った推論によって(3)を導き出せる。だが、(3)から(4)を演繹することはできない(なぜか)。それと同じように、(2)から(1)を導出でき、(1)から(2 )が導出できないと思いたくなる。だが、ここで問題になるのは上述の「信じる」と言う述語の特徴。

 Aが「Bを信じる」ことと「Bである」ことはまるで違う。何かを信じることは、その何かが信じる通りにあることではない。これは「信じる」ことから「存在する」ことが言えないということである。だから、(3)や(4)と同じようには扱うことができない。

 だが、(1)と(2)の文を素直に読めば、「…信じる神がいる」の「いる」は信念の中にいるのではなく、信念の対象が(信念の外に)いると述べている。だから、(3)や(4)と同じに扱うことができる。

 では、いずれが正しいのか。それは5月の新入生に考えてもらい、「信じる」ことは「ある」こととは大きな隔たりがあることをしっかり確認しておこう。誰かの意識の中の主観的な事柄と意識の外の客観的な世界での事柄は違うのである。「信じる」以外に主観的なことを示す動詞は沢山ある。「思う」、「感じる」、「考える」などはその代表である。では、「知る」はどうか。

 さて、何とも理屈を捏ねた話になったが、これが「論理的である」ことについての議論の一例である。これは退屈な議論で、それゆえ、論理学など退屈な科目なのだろうか。私に言えることは、このような議論の積み重ねが今のコンピューター科学を生み出したのだということである。

*(論理学の退屈な問題:これは答えがはっきり出る問題)

・(1)あるいは(2)から「唯一の神」の存在は帰結するか。