無欲と意欲(2)

 前回は対称性やDNA複製の堅苦しい話に終始したが、今回は対称性の成り立たない、情報の遣り取りのある不安定な世界の姿を浮き彫りにしてみよう。

 ゲノムは安定しているようで不安定、巧妙精密にできているようで実は間違いだらけ。合理的に精妙に働くが、故障を抱えたまま無理に働いている永遠の試作品、それがゲノムの本性である。ゲノムが正常か異常かの区別はつかなく、異常は正常の一部になっている。35億年近い地球の歴史のごく早いうちに生まれた生命は環境の大変動にもてあそばれながら栄枯盛衰を繰り返してきた。途方もない変異を絶え間なく作り出し、環境変化によってほとんどが絶滅しても、その中の変わり者(=変異個体)からうまく生き残るものが選択されて栄えることになり、それが絶え間なく繰り返される。この過酷な試練に耐え、偶然の力に助けられて生き延びてきた生命は、早いうちからDNAをコピーして新しいDNAを作る「複製システム」と、DNAを模写してRNAをつくる「転写システム」と、そのRNAをうまく使ってたんぱく質を作る「翻訳システム」とから構成される「複合システム」となった。

 ゲノムが遺伝子を次の世代に伝える際に使うのは生物個体。ヒトであれば私たち個人であり、そこでは今も途方もない頻度で変異が起こり続けている。その中にはかなり厳しい変異、つまり故障プログラムとなってしまう部分もあるが、故障プログラムを抱えたまま何とかやってしまう融通性の高い転写システムや翻訳システムのおかげで私たちの生存が保たれている。

 そこで私の存在を可能にした記録を担い、今まさに働いている私のゲノムDNAを調べようと意欲を燃やす研究者が出てきてもおかしくない。しかも、これらの研究から私の健康を予測することができる。研究の成果は急速に蓄積しており、私と隣のあなたとは似ていながら驚くほど違い、その違いをゲノムDNAの「文字配列」、つまりプログラムの違いで明示することができる。ヒトの場合、精子の85%、卵子の75%は障害をもっていて受精できないし、受精して細胞分裂を始めたものも、安全なはずの母体の中で半分も無事に育たない。胎児に育ち始めてからも、発育の途中で駄目になるチャンスが数え切れないほどある。そのほとんどの問題はゲノムDNAの変異に起因する。とはいえ、変異を作りだし、受け入れ、世代交代を続けていくのが生き延びてゆくための代償なのだから、これは仕方のないこと。

 というと聞こえはいいが、変異のもつ厄介な二面的特性に気づかされる。進化して種を存続させるには変異は不可欠なのだが、個体レベルでは変異は厄介なトラブルメーカーでしかない。反対に、同じ遺伝子の突然変異をもって生まれた二人が、片方は体調不良、他方は何も問題なく暮らしていることもごく当たり前のこと。ゲノムの指令はそれが働く場、つまり自らが作りだしている身体の調子や環境に支配されるのだから問題は複雑である。ここでは偶然と必然が私たちの存在と混然一体になっている。

 それでは私のゲノムを調べるのはおみくじを引くのと同じかというとそうでもない。少なくとも、普通に暮してきた人が老化し、次第に顕在化してくる身体の不調を、ゲノムがこれまで抱えながら何とかやって来た故障プログラムの問題と、故障をカバーしてきてくれた体調の変化との関係から調べることができるようになりつつある。占いは予測に変わりつつあるのだ。悪い遺伝子を持っていれば病気になると考える人が多い。「優性遺伝子と劣性遺伝子を掛け合わせると優性遺伝子の形質が現れて…」というメンデルの法則は十分に理解されているとは言えない。遺伝子はいちいち「良いか悪いか」で選ばれているわけではない。

 ヒトのゲノムの本体は30億ほどのヌクレオチド(文字)が並んでできたDNAであり、約2万の遺伝子からできている。ヒトゲノム解読の国際協力が成功し、2000年過ぎにはこの文字配列をきちんと調べる技術が進歩し、個人のゲノムDNAを別々に調べることができるようになった。「自分のゲノムを知る」ことは、アメリカでは既にビジネスになっており、既に何万人もの人が有料でゲノムのデータを調べ、それに基づいた生活設計をしようと計画されている。

   では、自分の遺伝子を知りたいかと問われると?遺伝子がわかって自分の未来を知ってしまうと怖い、自分は知らなくてよい、また、私は今健康だ、そんなことに気を使っても日々の生活がどうなるというものでもないし、そんなことよりも今の生活を楽しめればそれで十分、と思う人がいる。対照的に、自分は病気を抱えているから、将来生きる条件をはっきりと知りたいと考える人もいる。個人のゲノムを調べると何がどうわかるのか、わかったらどう生かせるのかというところに関心が収斂しつつある。そして、その情報と知識を生活に密着させるにはゲノム情報と体調を知らせる情報を両方合わせて入手することが大切になる。

   その機会は意外にも健康診断にある。今の健康診断ではいろいろなマーカーや機能の検査を中心に体調をしらべてくれるのだが、せいぜい検査に関わってくれた医師が「これこれの数字が高いから注意しなさい」と言ってくれるくらいで、検査結果は通常あまり深刻に取り扱われない。ところが実は、この健診こそが私たちには一番役に立つものなのである。ゲノムの指令が以前からあってそれに耐えて暮してきた身体が崩れ始めるときには必ず予兆がある。自分のゲノムの知識はその予兆をどういうところに求めるべきか、どこに注意するべきかを知らせてくれる。ゲノムについての知識と健康診断の情報とが生きる知恵になるのである。

 

 保存則が成り立ち、それゆえ、対称性があるのが物理学の世界。だが、その保存則が成り立たないのが生命現象。対称性が成り立たないことは、生命現象が歴史的であり、過去や未来をもっていることを意味している。細胞分裂で複製されるものは物理的に同じである必要はなく、同じ情報をもち、同じと認知されるだけで十分である。

 欲(desire, will、意欲)を欠くものは存在できない。欲があるからこそ生命現象が起こる。開いたシステムが存在するとは、そのシステムが欲をもつということである。開いたシステムが存在すること自体がシステムが意欲的であることを意味している。無理やりに存在しているのが生命システム。生存すること自体が反自然的な(自然の変化に抗している)のである。生存するために自然のシステムとは異なる新機軸を打ち出さなければならなかった。それは欲をもつことであり、欲がなければ生きられないシステムをつくり出すことだった。

 無欲で存在している物理システム(system without desire)と、欲をもって存在している生命システム(system with desire)というのが根本的な違いなのである。「存在する」ことは無欲で可能だが、「生きる」ことには欲が必要というのがこれまで述べてきたことであり、それは同時に「存在する」と「生きる」の違いにもなっている。さらに加えるなら、「知りたい」という欲と「生きたい」という欲は異なる。「知りたい」は認知現象を引き起こし、「存在する」と「生きる」をつなげようとする。

 コピー、複製、模倣は生物学の基本。生物学は、それゆえ、物理化学と違って文明開化された領域。情報の自由な流通・交換が世界を支え、救っている。原子と違って生物個体は自由にコピーできる。世代交代とはコピーそのものであり、それはDNAの複製を通じて実行される。そして、その形式を変形し、拡張したのが文化であり、文化は情報の生成とコピー、保管・維持から成り立っている。

 

 保存則が成り立つシステムは閉鎖しており、観察する私は外から静観するだけであり、(不思議なことに物理レベルでは)相互作用はしていない。(実際は観測や実験のデータを使ってシステムを設定するのだが、)何の相互作用もないのに、そのシステムを知ることができるというのは実はミラクルでしかない。この理想的過ぎる、素朴な前提が簡単に壊されるのが生命システム。エネルギーや情報の遣り取りを除いたのでは生きていけないようなシステムが当たり前のものだと前提され、解析力学的な世界とはまるで様相を異にすることになる。

 この二つの見かけ上の違いはどのように考えるべきなのか。物理的なシステムは相互作用をすべて含んだ包括的なシステムを想定するのが普通だが、情報システムなどは寧ろ相互作用を強調する。「神の視点から見る、傍観者の立場を取る」という比喩的な表現はシステムをできるだけ包括的に捉えることを意味している。何かを見ている場合、見ている自分の姿は見えないのが普通であるが、それは見ているものをできる限り広範に、公平に捉えようということなのであり、その知覚の自然な姿がモデルづくりにそのまま使われている。私たちの知覚の普通の形式では、視点は見えないし、見ないのである。

 知覚を問題にすれば、知覚システムと外部環境との相互作用に焦点が当たることになる。、相互作用を表現しようとすれば、知覚システムの意欲や目的を無視できなくなる。意欲や目的をもつ対象をすべてシステムの中に取り込んだ全体のシステムに意欲や目的を仮定する必要はないのだが、相互作用する過程や仕組みを問題にする場合は、欲によって作用し、欲が変化を引き起こすから、それが物理的でない変化(例えば、情報の遣り取り)として表現され、欲は重要な役割を演じることになる。そして、そのような内容が、「生命が相互作用すること、生命が欲望をもつこと、生命が目的をもつこと」と表現され、システムとして自律している(autonomous)と受け取られている。エネルギーや情報の遣り取りをする開かれたシステムが自律したシステムと呼ばれるが、閉じた自己完結的なシステムは自律しているのではなく、孤立した(isolated)システムと理解されている。