無欲と意欲(3)

 「欲望とは、他者の欲望である」というちょっと気障な言葉は、フランスの精神科医、哲学者だったジャック・ラカンのもの。欲望は自らの内にあるというステレオタイプ的な思い込みに対し、それを逆転した視点を与えてくれるというのがこの文の大袈裟な解釈。ラカンが説くには「他者の欲望行為が誘因となって、私自身の欲望が生み出される」。確かに私たちは、子供の時以来他人がもつもの、欲しがるものを欲しがってきた。だから、欲望は自発的に生まれるのではなく(大袈裟に言えば、自由意志によって生まれるのではなく)、他者の欲望に刺激されて、(半ば因果的に、そして心理的には強制的に)自分の欲望が生み出されるのである。つまり、私の欲望は自発的なものではなく、受動的で、因果的で、強制的なものなのである。

 このようなことはこれまで述べてきたものにも含まれている。既に「無欲と意欲」を読まれた読者にはラカンの慧眼はむしろ当たり前のことでしかない。だが、人々は時代を先取りすると評価されてきた思想の中にラカンのような見方を見出し、感心してきた。それはさらに遡ることができ、誰が発案者かを探そうという歴史的な関心へと向かう。その一部を探ってみよう。

 まずは、現代思想に絶大な影響を与えたコジェーヴのパリ高等研究院における講義録(1933〜39年)である。コジェーヴは、それまで有神論的形而上学の哲学とされてきたヘーゲル哲学を、徹底した「人間」洞察の哲学として解釈し直した。その際のキーワードが、「欲望」。コジェーヴ現代思想に与えた最大の功績は、人間を「欲望存在」として規定した点にある。コジェーヴは言う。私たちは、ただ対象に単純に向かっているだけの存在ではない。私たちは、まず何よりも自分自身を意識している「自己意識」である。そしてこの自己意識は、一切のものを私の「欲望」から対象化する。自己意識、つまり真に人間的な現存在の基礎にあるものは、純粋に認識的かつ受動的な観想ではなく、欲望である。この欲望は、それが人間的なものである限り「他者」へと向かう。それは、結局は他者に対する自己の優位をその他者に承認させるためである。これが、人間同士の間に「生死を賭けた闘い」を生むことになる。つまり、「主人と奴隷との出現に帰着した最初の闘争とともに、人間が生まれ、歴史が始まった」のだとコジェーヴは主張する。

 とすれば、この主人と奴隷の闘いが終わる時、歴史は停止することになる、とコジェーヴは続けて主張する。世界史、人間の相互交渉や人間と自然との相互交渉の歴史は、戦闘する主人と労働する奴隷との相互交渉の歴史である。そうである以上、歴史は主人と奴隷との相違、対立が消失するとき、もはや奴隷をもたないために、主人が主人であることをやめるとき、そしてもはや主人をもたぬために奴隷が奴隷であることをやめるとき、歴史は停止する、と。国家において万人の承認が完成した時、主人と奴隷の闘いは終わり、そうして人間の歴史も停止する。コジェーヴはそう考えた。

 こうなると、ヘーゲル自身がどう考えていたか気になる。そこで、ヘーゲルが考えた「主人と奴隷」について見てみよう。ヘーゲルは「自己意識」という言葉に二つの意味をもたせた。対象を意識している主体が自らを意識するという意味が一つ。これは、デカルト以来の認識論での自己意識と同じ。もう一つは、同じ自己意識をもった他者との関わり合いにおける自己意識。この場合の自己意識は、同じように自己意識を持った他者を意識している自己についての意識で、最初の自己意識のように、たんなる対象に向き合っている意識ではない。(自己意識が複数あり、互いに意識し合うことは今では当たり前のこと)

 自己意識の二つの意味は、ヘーゲル以前の哲学者たちにはなかったらしい。ヘーゲルはこのような自己意識を認めることで、人間の精神的な働きの場面を個人の心の中の意識に限定するだけでなく、他者との関わり合い、広い意味での社会的な相互作用の中で、人間の本質を捉えようとした。これはこれまでの私の叙述では「開かれたシステム」としての自己意識ということになる。

 ヘーゲルはこの自己意識を個人と同義に使っている。そして、この個人同士のせめぎ合いの中に人間性の本質が隠されていると考える。だから、ヘーゲルは個人と個人の関係に焦点を当てる(これも今では当たり前のこと)。  自己意識の本質は欲望である、とヘーゲルは言う。欲望とは生物的な存在として生き続けたいという衝動である。つまり、ヘーゲルにとって、人間は身体を持った生き物なのである。ヘーゲルは身体論を具体的に展開しているわけではないが、人間を生きようとする欲望をもった生物的な存在として捉えることで、より現代的な人間把握に近づいている。

 この「生物的な存在」をヘーゲルは「生命」と呼んでいる。この生命観も当時とすれば目新しい。

「生命が"ある"というのは、ただなにかが抽象的に"ある"ということではないし、生命の純粋な本質は、抽象的な一般理念として頭の中にあるのでもない。生命体が実体としてあるということは、純粋な運動が単一の流動体の内部で現に行われているということなのだ」(『精神現象学』Ⅳ自己確信の真理、長谷川宏訳)

 何とも難渋でレトリカルな文章だが、人間は抽象的、観念的な存在ではなく、生命の躍動を伴った生き生きした存在なのだという、私たちには当たり前の主張である。

 さて、このような自己意識は自己の自立性についての確信を求めるのだが、その確信は(同じような自己意識をもつ)他者に承認されることによって可能になる。自己意識は自分一人では、自己自身であるという確信を持てない。そこには必ず他者の媒介が必要となる。人間は他者とのコミュニケーションを通じて存在する、本質的に社会的な存在なのである。これも今では普通の人間理解である。

 この辺がヘーゲルの思想の核心となる部分で、西洋の哲学史上で画期的なのは、人間を類的存在としてとらえたところにあると言われてきた。生物種としての人間の特徴を自己意識をもつ者の間の社会集団内の相互作用と捉えた、というのが今風のまとめである。

 この議論の中で有名になったのが、コジェーヴも注目した「主人と奴隷」の話。後にマルクスサルトルにおおきな影響を及ぼすことになる。「主人と奴隷」とは、支配-被支配関係を表現した言葉である。人間は互いに承認を求めて戦い、支配-被支配という関係を築きあげる。戦いに勝った者は相手を支配することによって、自分が主人として自立しているという確信を持ち、負けたものは奴隷として相手の支配に服する。これが人間の本性だとヘーゲルは考え、人間の歴史の出発点をこの支配-被支配関係としての奴隷制としたのである。強い者が弱い者を征服し、自分の奴隷にする。これが人間社会の歴史の出発点だとヘーゲルは主張する。

 主人と奴隷の関係は互いに相手を前提として成り立つ。奴隷が存在しなければ主人はありえないように、両者は一体となって初めて意味を持つようになる。そこでヘーゲルは、主人-奴隷関係の中に潜んでいる弁証法的な契機を明らかにしていく。まず、主人は死の威力をもって奴隷を支配する。奴隷は死の脅威に怯えて主人に服従する。つぎに主人は奴隷の労働を通して物を獲得する。奴隷は奴隷で、労働を通して直接物にかかわり合う。しかし、この過程から次のような事態が生じる。

 主人は奴隷を支配することを通じて、自分の自立性を獲得できているように見えるが、このことは、いいかえれば、主人の自立性は奴隷との相対的な関係に依存していることを示している。主人は奴隷がいなくなれば主人であることをやめ、人間としての自立性を失うことを意味する。もはや主人でなくなったものは、物とのかかわりも失うからである。  ところが奴隷の方は、たとえ主人がいなくなったとしても、少なくとも人間としての自立性を失うことにはならない。何故なら、奴隷は労働を通じて直接物にかかわっているので、そのことを通じて人間としての本質に即した生き方ができているからである。人間は、労働を経験することによって、自己意識の本質を実現できる。

 人間の本質実現は労働を通じてもたらされる、という思想は、マルクスに多大な影響を与えた。マルクスもまた、労働こそが人間の本質を実現する過程だと考えたのである。そして資本主義社会においては、支配者たる資本家は他人の労働に依存している限り、ヘーゲルのいう「主人」と同じ立場にある。一方ヘーゲルのいう「奴隷」である労働者階級は、労働を通じて人間の本質実現をできる立場にある。それ故、資本主義社会が消滅して共産主義社会がやってくれば、労働するものは、労働を通じて、自己の人間性を全面的に開花できる立場になる。マルクスはそのように考えたが、その思想の発端はヘーゲルの「主人と奴隷」の関係の議論の中にあったのである。

 このように見てくると、ヘーゲルの先見の明は今の「開いたシステム」と生存の関わりの一端を示していたように見える。一方で、「主人と奴隷」の話は今では通用しないことも明らかである。ヘーゲルの考えを心の片隅に置きながらも、現在の知識をベースに無欲から欲が生まれ、私たちが意欲をもつことの意義を冷静に捉えていくことが必要だろう。