ヘーゲル『精神現象学』;素人の見解

 ヘーゲルは私からは最も遠い哲学者の一人。妙に生々しいことを考えたという印象をもちながらも、とても読解不能な判じ物ばかり。そして、その代表が『精神現象学』。今回「欲望」に関心をもつと、ヘーゲルも似たようなことを考えていたようだと勝手に思ってしまったのが運の尽きで、ヘーゲルを読む羽目になった次第である。ずっと昔に意外にも現代風のことを考えていたのだと感心しても、しっかりした裏付けがあってのことではなく、ヘーゲルの動物的直観が働いていたのだと考えるしかない。

f:id:huukyou:20170522123014j:plain

 『精神現象学』は「ヘーゲル文法」を知らないと読めないような代物である。哲学好きの人でも哲学嫌いになるような書物で、人はそれを難解と呼んできた。ヘーゲルは人間の精神(=意識)はどのように成長するか、それを素朴な感覚の段階から「絶対知」に至るまでのプロセスとして物語る。人間の精神は「絶対精神」(=神)の精神を分け持ったものであり、この精神を歴史を通して実現していく、というのがヘーゲルの描くシナリオ。でも、それは検証不可能なフィクション。「絶対知」とは、絶対に正しいことではなく、私にとって「よい」、「正しい」ことは、他者にとっても同じように「よい」、「正しい」ことである、ということを自覚的に知っている精神状態のことで、今風に言えば間主観的な知識のことである。

 このことを自覚するまでに、人間精神(意識)は様々なプロセスを経る。ヘーゲルはそれを、人間個人の成長と、また人類の歴史的成長という、二つの観点から描き出す。発生論的な「個体発生的叙述」と進化論的な「系統発生的叙述」で、要は一人の個人の成長記録と人類の進化記録である。

 『精神現象学』は、1意識、2自己意識、3理性、4精神、5宗教、6絶対知から構成されている。意識、自己意識、理性は、個体発生的な人間意識の成長を描き出したもの。精神と宗教は、系統発生的、つまり歴史的な人間意識の成長を描き出したもの。そして絶対知は、それらのまとめ。

 「真なるもの」は「絶対精神(神)」だが、実は私たち自身もこれを分け持っている。そして、この「私たち自身」の精神が、どのように「絶対精神」の本性を個体発生的、系統発生的に実現していくか、そのプロセスを描き出すのが『精神現象学』である。ヘーゲルによれば、「真なるものは全体である。しかし全体とは、ただ自己展開を通じて己れを完成する実在のことにほかならない。」 このプロセスを克明に描き出すことこそが、アカデミックな知識だとヘーゲルは主張する。自分の精神の成長を自覚的に知ること、そして、絶対精神が人間を通じてどのように進化していくかを描き出すこと、これが『精神現象学』の課題という訳である。

 人間の精神、つまり、意識がどのように成長するかを述べることが最初の課題。最初は素朴な精神が、さまざまな問題に行き当たり、それを乗り越えて成長していくプロセスを述べればいいのだが、ヘーゲルはそこに「絶対精神」にとってはどういう意味を持っているかということを重ね合わせる。その重ね合わせが、様々な判じ物の用語を生み出す。

 まずは、私たちの素朴な意識で、感覚したものへの確信。例えば、「目の前にスプーンがある」と素朴に信じている状態である。だが、人間の意識はやがてこのスプーンは「私がこれをスプーンだと認識しているからスプーンとして存在している」と思い、さらには「対象は自我がこれについて知るから存在する」と意識するようになる。つまり、 人間の意識は、自らの「知覚」それ自体を考えるようになり、「スプーンだ」と思うだけではなく、私はこれをスプーンとして見ている、と考えるようになる。こうなると、私は、思考それ自体に目を向けるようになる。知覚される対象をどのように「捉える、理解する」かを考えるようになるのである。私たちはそこから世界に様々な「法則」があることに気づくようになる。さらに、私たちはそれら法則の正しさの根拠や理由を探し始める。

 意識はたえず「区別」と「統一」を繰り返し、それが無限に続く。別々の法則が実はつながりあっていることに気づく。そうすると、世界はさまざまに変化し、混沌としているが、実は統一的な「無限性」を持っていることにも気づくようになる。ついには、世界の法則もそれを見ている私も、実は別々のものではないという意識が登場する。こうして「意識」は、世界は実は「自分にとって」存在しているのだということに気づくようになる。この意識が「自己意識」である。

 これは、端的には「欲望」のこと。「意識」がただ単に「対象」に対する意識だったのに対して、「自己意識」はそれを「わたしの欲望」から見る。そして、この「自己意識」は、まず「自分は自分である」ことを、自分にも他人にも認めさせたいという欲望をもっている。自己意識は、互いに「自分」という意識をもった存在だということを、相互に承認しあうことになる。最初はきわめて素朴な相互承認である。『精神現象学』は、この「相互承認」の変遷プロセスを描き出している。今風には自己意識の社会化の過程である。  最初に現れる「自己意識」のタイプが「主と奴(主人と奴隷)」である。自己を主張し合うそれぞれの自己意識は、「承認のための生死を賭する戦い」を繰り広げ、その結果、主人と奴隷とに分かれることになる。主人は自由を「享受」できる存在だが、奴隷は主人への「畏怖と奉仕」を義務づけられる。ここからは既述の如く、「自己意識」が次の段階へと展開する契機は「奴隷」の方にあり、奴隷は労働を通して、自分は主体的に「自由」な存在なのだ気づくことができるとヘーゲルは主張する。  やがて、「自己意識」は自分の中だけで自分の価値を守ることが不可能だということに気づくようになる。自分の価値は、他との関係の中でしか見出すことができないことに気づくが、この状態「理性」。理性には、「観察する理性」と「行為する理性」の二つがある。「観察する理性」は、まず自然を観察し、その中に自己を見出そうとする意識。この理性は、自然を記述し、分類し、法則を見出したりする。他方の「行為する理性」は、現実の他者関係の中で、他人からの承認を得ようとする意識のことである。最終的には、この「行為する理性」が人間の共同体における「倫理」のあり方を形作ることになる。

f:id:huukyou:20170522123052j:plain

 ヘーゲルは、この「行為する理性」にも三つのタイプを描き出す。最初のタイプは、「快楽」を求める意識のあり方である。具体的には恋愛を求める意識だといっていい。だが、人はただ快楽だけを求めて生きることはできない。そこには世間の「必然性」、つまり現実の壁がある。そこで登場するのが、「心胸の法則」である。「みんなの幸せ=私の幸せ」と主張する意識のこと。ところがこの意識は、それが実は不可能だということをやがて知る。「私」の思う「みんなの幸せ」は、他人が思う幸せとは結局のところ異なっているからである。こうして、この意識は「錯乱」していくことになる。自分は「みんなのため」を思っているのに、なぜそれが実現しないのか」と。次に登場するのが、この「私」の思う「みんなのため」を、絶対に実現してやると意気込む「徳の騎士」だ。この騎士は、「みんなのため」を妨げる他の人たちを正してやろうと行為する。だが、現実は甘くない。どれだけ「世直し」を叫んだところで、それは一人よがりな「正義」に過ぎないからである。

 こうして「理性」は、ついに気づく。快楽に浸って、みんなの幸せを漠然と空想しても、そしてそれを素朴な行動によって実現しようとしても、どれも現実性を持たない空しい意識である。だから、私たちは、何らかの「行動」、「仕事」、「作品」を世に示すことで、それが他者からの承認を得られるかどうかたえず検証しなければならない。この「行動」、「仕事」、「作品」が、ほんとうの「事そのもの」になっているか、他者に向かって投げかけなければならない。

 意識はこれまで、意識、自己意識、そして理性へと展開し、ついに「事そのもの」の自覚という境地に達した。続く「精神」の章で、ヘーゲルはこの展開をいわば歴史的にたどり直す。ヘーゲルによれば、人間の歴史もまた、実はこのような展開のプロセスとして見ることができる。歴史上の具体例を使いながらヘーゲルは展開のプロセスを述べていく。古代ギリシャの家族と共同体のルールの対立から始まり、良心まで延々と描き続ける。

 だが、ここまでで私は息切れ状態。系統発生的な歴史展開はとても追随できない。その歴史展開のヘーゲル風解釈が個体発生と併進するものかどうかと問われれば、例のヘッケルの生物発生原則(「個体発生は系統発生を繰り返す」)が思い出されてしまい、私の意欲は萎えてしまうのである。近年のEvo-Devoの議論が実証レベルの知見が増えることによって充実すれば、それを待って議論する方がよいというのが現在の私の何とも消極的な態度である。