奇蹟、聖人、福者

 2017年2月17日高山右近の「列福式」が行われ、没後402年、高山右近福者の称号を得た。日本では394人目(日本の聖人は42名)である。では、395人目の福者は誰だろうか。2015年1月23日、教皇庁列聖省の発表によると、北原怜子(さとこ)(1929-58)の英雄的徳が認定され、北原は「尊者」と認められた。彼女は戦後、家も仕事も失った人たちが東京・隅田川沿いに集まってつくった「蟻の街」で廃品回収を手伝い、子どもたちの世話などをし、献身的に働いた。だが、結核を患い、28歳で早世。現在、コンベンツアル聖フランシスコ修道会が列聖運動を進めている。これは一体何のことか、そもそも尊者、福者、聖人とはどんな人たちなのか。

 教皇庁列聖省が聖人の列に加えられることを最終的な目的として、その調査を宣言すると、その人は「神の僕(しもべ)」と呼ばれ、次の段階で尊者と宣言される。列聖省が様々な調査を行い、その人物の生涯が英雄的、福音的な生き方であったことを認め、つけられる敬称が尊者である。

 聖人の位につく前に、尊者の徳ある行為、あるいは殉教によりその生涯が聖性に特徴づけられたものであったことを証して「福者」という敬称がつけられる。そして、天に在住し、福者の列に加えられることを「列福」といい、その式が「列福式」。福者になるには、殉教者の場合を除いて、一つの奇蹟が必要で、調査委員会が様々な資料を集め、厳密に調べる。

 聖人とは、生存中にキリストの模範に忠実に従い、その教えを完全に実行した人たちのことであり、神と人々のために、またその信仰を守るためにその命をささげるという殉教もその証明となる。福者の列に加えられた後、もう一つの奇蹟が前提となり、福者と同様な調査と手続きを踏んで教皇が公に聖人の列に加えると宣言し(列聖)、その式(列聖式)はローマの聖ペトロ大聖堂で盛大に執り行われる。日本の教会に関係する聖人では、聖フランシスコ・ザビエルをはじめ、日本26 聖人殉教者、聖トマス西と15殉教者、聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父がいる。

 プロテスタントでも信仰の先達として過去の偉人を敬う教派がある。例えば、聖公会やルーテル派など。仏教でも「親鸞聖人(しょうにん)」と呼ばれるが、奇蹟とは関係がない。カトリックの聖人はこの「信仰の先達」を越えて、奇蹟を行なった人として認定される。信仰の先達として世の中に貢献しただけではカトリックの聖人にはなれない。そこには「奇蹟をおこした」証明が必要になる。

 さて、奇蹟が重要な役割を演じていることがわかったが、奇蹟についての世俗の常識はどうなっているのだろうか。「無奇蹟」論証(No miracle argument)は多くの実在論者によって科学的実在論のもっとも強力な理由と見なされている。この論証は次のように展開される。

 一般相対論や量子力学が宇宙の基本構造について本質的に正しいことを述べているのでないとしたら、それら理論が正しい経験的な予測をすることは奇蹟か偶然の一致と言うしかないだろう。奇蹟や偶然の一致でない説明があったとすれば、私たちは奇蹟や偶然の一致をそのまま認めないだろう。ある理論が現象の背後で起こっていることの真の姿を捉えていれば、それら現象は奇蹟でも不思議な偶然でもないだろう。だから、今受け入れられている理論は確かに正しいと結論してもよいだろう。

 この無奇蹟論証を具体的に繰り返せば、次のようになる。クオークや光子が実在していないとすれば、それらを使ってなされる予測や説明は奇蹟だろう。科学理論がなぜ成功しているか(つまり、宇宙はクオークや光子が実在しているかのように振舞うこと)の最善の説明は実際にそれらが実在していることを認めることである。それゆえ、私たちは実在論が正しいと信じるべきなのである。

 反実在論からの反応の一つは次のものである。奇蹟がないことからの論証は、科学理論の予測成功についての唯一の説明は、予測を真にする観察できない対象はそれら理論が述べている通りのものである、ということを主張している。だが、構成的経験論者であるフラーセンはこの主張に対して別の説明をする。

 科学は生命現象の一つであり、環境との相互作用を円滑にする有機体の活動である。これは科学的説明にそれまでと違った解釈を与えてくれる。ネコから逃げるネズミについて二つの異なる説明がある。アウグスティヌスは意図的な説明を考えた。ネズミはネコを敵だと認識し、それゆえ逃げた。ここで仮定されているのは自然の秩序、つまり、ネズミの心に敵の関係が正しく捉えられていることに対するネズミの思考の十分さである。だが、ダーウィン主義者は言う。なぜネズミが敵から逃げるかはネズミの心に問うべきではない。敵とうまく渡り合えなかった種はもはや生存しない。これが、うまく渡り合えるものだけが生存している理由である。これと同じように、現在の科学理論の成功は奇蹟ではない。どんな科学理論も厳しい生存競争の中で生き残ったものだけが成功している。科学理論が正しいから成功しているのではない。

 実在論、経験論のいずれの立場であれ、科学は奇蹟を認めない。奇蹟についての大きく異なる立場は正にカトリックと科学の違いを象徴している。