微積分の背後:第3話

 運動変化の連続性、平たく言えば、スムーズな運動変化、途切れることのない、流れるような運動変化とはどのような変化なのか。この問いこそギリシャ以来多くの人が関心をもってきた謎だった。私たちの眼には運動変化は連続的な変化として映る。どんな対象も連続的に位置を移動しているように見える。その変化の妙は時には美的な感動さえ引き起こす。私たちの適応は運動変化が連続していることを前提にした適応としか言いようがないほどに、運動は連続的であることを生活や行動の基礎にしている。つまり、自然の変化は運動を基本にしており、その運動の基本的な特徴は連続性にある、これこそ人が経験的に獲得してきた想定である。だが、この感覚的に明らかな特徴は、非感覚的に理解しようとすると厄介な事柄に変わる。命題の真偽が二値的であることがほとんど自明であるのと同じように、運動の連続性は疑いえない事実と考えられてきた。

  自明としか見えない運動の連続性の本質を見極めようとすれば、どのようにすればよいのか。運動変化の表象装置として感覚知覚を使わない、別の装置が考案できれば、感覚的でない仕方で運動の連続性をより冷静に、別の視点から理解できることになる。この見込みこそ、数学と物理学の関係を説明してくれる基本にあるものである。運動を感覚知覚的に表象するのではなく、数学的に表象することこそ二つの関係を築いてきたものである。運動を適確に表象する装置が幾何学であり、幾何学によって世界を非感覚的に描くということがギリシャ以来人類の採ってきた方法だった。

 運動の表象装置としての幾何学は、運動を描くのに不可欠な時間や空間の表象を含んでいた。それが幾何学の解析化であり、それに伴い「無限」概念が重要な役割をもつようになった。それまで避けられてきた「無限が物理世界に存在するかどうか」といった問いに正面から立ち向かわなければならなくなる。確かに、時空の存在と無限の関係は多くの人を惹きつける問いである。

 「点が連続的に並んでいることが線である」ことを認めるには、点が無限になければならず、連続性の背後に無限が横たわっていることを暗示している。だが、無限はギリシャ時代には忌むべき概念だった。それがアリストテレスの「可能無限」という折衷的な概念になり、カントールの「実無限」概念が登場するまで解析学を支えてきた。

 連続性の解明は実数の連続性(そして実数値関数の連続性)として考察の対象となり、実数の解明は解析学の基礎として不可欠なものとなった。実数を解明する研究者の一人であったカントールは、無限概念を実無限として解明しようとした。実無限がどのような概念で、その内容は連続体仮説(continuum hypothesis)の証明によって決着がついたのだろうか。

 パルメニデスによれば、実無限と可能無限の区別はなく、二つは同じ無限で、完結した無限だけが意味をもっている。だが、アリストテレスは二つの無限を区別し、実無限の存在を否定する。「数が増えていく、減っていく…」といった変化する数の並びは認識上有効でも、数学的対象として無限を考えた場合、他の確定した数学的概念と自動的に組み合すことができなくなる。その意味で可能無限は曖昧である。可能無限は外延が曖昧な、反パルメニデス的概念であり、物理世界や心理世界の変化を数学世界にもち込んだようなものである。「完結した運動」だけが意味のある運動であると考える人は、完結した実無限だけが数学的に完結した意味をもつと考えるだろう。だが、数学の直観主義者や構成主義者は変化する過程を変化し終えた結果として考えることに同意しない。確かに、変化の只中に身を置くなら、そこは排中律が成立しない、典型的な非決定論的世界となっている。

 最も実数らしい性質が「連続性(完備性)」であり、この性質のお陰で微積分が可能となり、それを使って自然を扱ってきた(数学では常識的な連続性を完備性(completeness)と呼び、関数について連続性(continuity)という用語が使われる)。連続性を支える「限りなく近づく」ことのできる性質が点と線の不思議な関係を基本にして成立している(収束は「限りなく近い」点の存在によって定義され、いわゆるε-δ方式によって教えられてきた)。連続する時間や空間を表現する最も適した数学的対象として、実数は数学者の関心の的となってきた。 「点が集まると線ができ、線を分割していくと点に到る」という点と線の関係が実数における無限分割可能性という語のもつ意味を独特なものにしている。自然数の集まりも無限に分割できるが、自然数をすべて集めても線をつくることはできない。では、その自然数からどのようにして実数をつくり出すことができるのか。それを示すことが集合論の研究目標だった。この目標はいまだ実現できず、実数が自然数より高い濃度をもつことはわかったが、その濃度が自然数の濃度の次の濃度か否かは今の公理的集合論においては証明できない(これが連続体仮説が公理的な集合論から独立しているということであり、ゲーデルとコーエンの結果である。)。

 実無限、可能無限という区別は一見重要な区別に見える。アリストテレスやカントが二つの無限概念を区別し、直観主義にも大きな影響を与えたと言われているが、「無限の対象を含む集合を考えることができたら、そこから何が見えてくるか」という問いを優先したのが20世紀の大勢であり、その姿勢が集合論を生み出すことになった。そこでは「完結した無限」が集合と考えられ、「生成途上にある無限」は集合とさえみなされない。したがって、運動に関しても同じように完結した運動を対象にすることになる。無限を扱う認識レベルではそうなのかも知れないが、存在レベルでは大きな意味をもっていない。認識レベルの話とは別に、「集合」は実数のもつ無限性を明らかにできる基本的概念である。

 

「要素が集まると集合ができ、集合は要素に分解できる」

「点が集まると線ができ、線を分割していくと点に到る」

 

 点、線、図形に関する議論を次のような問いを使って見直してみよう。

 

点から線はつくれるか。線を分割していくと点になるか。

(線から面はつくれるか。面を分割していくと線になるか。)

(面から空間をつくれるか。空間を分割していくと面になるか。)

 

これら問いは目新しいものではないし、参考文献を参照しなければわからないといった問いでもない。だが、YesかNoかの解答とその理由は次のように分かれてしまう。

 

[解答1] 点には部分がなく、それゆえサイズがない。サイズのない点をいくら集めてもサイズが生まれるはずがない。点からスタートする限り、サイズの生まれる原因や理由がどこにも見当たらない。だから、「延長のないものから延長は生じない」、「何ものも理由なしに存在しない」といった形而上学の原理に従って、上の各問いについての答えはNoである。

[解答2] 区間[0,1]が0と1の間にある個々の点からできているように、実数の集合は個々の実数を要素に含んでいる。点から線ができ、線は点に分解できる。線は点の集合であり、点は線の要素である。面や空間についても同様で、それゆえ、上の各問いについての答えはYesである。

*[解答1]の真意は「0をいくら加えても0のままである(0 + 0 +…+ 0 +…= 0)」という命題を思い起こせばわかるだろう。[解答2]は「サイズのない点を集めるとサイズ(長さ)のある線ができる」ことを納得できるかどうかが鍵となっている。ところで、0 + 0 +…+ 0 +…= 0は、+が無限個あるなら、無限の加法はなく、…が何か判明しないと何を述べているのか不明であり、その意図を察することは容易でも、見かけと違って意味不明な記号の系列である。

 もっともらしく見える二つの解答を示されると、私たちはいずれの解答が正しいのか、そしていずれが古典的世界観で認められている解答なのか迷い始める。二つの正反対の解答を見て、古典的世界観が明瞭に理解され、共有されているのではないことを示す証拠だと思う人もいるだろう。さらに、古典的世界観より古い世界観がまだ残っているからだ、あるいは新しい古典的でない世界観が侵入したからだと想像する人さえいるだろう。いずれにしろ、正解は[解答2]である。

 どれかの問いにYes、別のどれかにNoと、問いごとに異なる答を出す人は僅かだろう。多くの人はすべての問いにYesかNoのいずれかを答える筈である。すべてYesと答える人の理由こそギリシャ人と私たち現代人を区別する古典的世界観の前提となっているもので、その理由の要点は「実数」概念にある。実数を使って線を解釈すれば、その線上の点は一つの実数値に対応する。例えば、区間[0,1]の中にあるすべての点を取り出し、再度集め直すことによって、その区間[0,1]を再現できる。つまり、区間[0,1]にある点をすべて集めれば区間[0,1]をつくることができるし、区間[0,1]を限りなく分割していけば点である個々の実数値に到達できる。このように考える核心にあるのは正に「実数、そして集合論による点や線の理解」である。具体的にどのように点を集めるか、どのように線を分割していくかの細部が曖昧だという漠然とした不安は残るが、点から線をつくることができ、線を分割し続ければ点に到ることは集合あるいは(集合論的な解釈を使った)実数に関する簡単な定理として証明できる。実数の性質は高校までに一応習ったことになっているから、それを覚えていれば答えはすべてYesとなる。さらに、ギリシャ人と私たちが違う答えをもつ理由も併せて説明できる。私たちのように実数を使って点や線を考えるならYesが答えとなり、自然数を主に使って考えた(少なくとも実数は使わなかった)ギリシャ人なら答えはNoとなる。実数は連続体だが、自然数は離散的でしかない。これが解答のYesとNoの違いを生み出している。