新江東綺景(2) 埋立地にないもの

 埋立地にないものは山であり、谷である。埋立地にない自然ではなく、埋立地に必要なように見えてないものについての話である。

 江東区の中心は江戸時代早期に深川・本所としてに発達した地域だったため、多くの寺社が存在する。この江戸の下町の海寄りはさらに埋め立てられ、今では「東京ベイエリア」と呼ばれる。豊洲埋立地で、関東大震災の瓦礫で埋め立てられている。東京湾埋立地には2020年の東京オリンピックパラリンピックの競技会場が集中する。

 中でも豊洲は人気がある。確かにその風景は見事で、誰もが住みたくなるような風情さえ感じてしまう。台場や豊洲の風景は人が住む風景を変えた感がある。観光と日常が同じになった点では台場に似ているのだが、豊洲は日常の生活が勝っている。

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(右手が豊洲、左手が晴海)

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豊洲から見た晴海)

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(晴海から見た豊洲

 湾岸に住み出してすぐに気づくのだが、寺も神社も見えないのである。これが今日のタイトルの意味である。それで気になり、調べてみると、明治以降の埋立地にできたのは寺院が一つ、教会が一つ。寺院は真宗大谷派寺院の本芳寺で、寺のなかった月島に明治42年月島教会と称して創建、昭和23年太平山本芳寺となっている。キリスト教の教会は新江東綺景(1)で述べたカトリック潮見教会。だが、豊洲有明、辰巳、枝川など、他の地域には何もない。

 江戸時代と違って、明治以降の街づくりプランやデザインに寺社は必要とされなかったのである。これは、寺院と神社は理由は微妙に異なっても、私たちの生活の中の必須のものではなくなっていたことを証明してくれる。寺社のない街には宗教的な事象が起こらないのが普通である(深川祭の御輿行列は豊洲や枝川でも行われる)。現に私の住んでいる街はそうであり、ほとんどの人はそれに不満をもっていないということが不気味であるとともに、自然なのである。街を歩き続けても寺院、神社、そして教会が見えない。だが、人々は平穏に暮らしている。

 計画的に整備されているし、歩道が広く、公園も緑も多く、大きな商業施設も沢山あって便利この上ないのが湾岸部だが、神社仏閣が一つもないことは徹底している。広大な面積に、何万人もが暮らしているのに、神社も寺もまるで見当たらないという状況は、他の地域の街並みに比べると不自然、無機質に感じられるとつい決まり文句のように言いたくなるのだが、そんなことはない、と思う人がこれまた多い。

 湾岸部の人々は門前仲町富岡八幡宮に行くも良し、月島の住吉神社に行くも良しと、呑気に考えることもできる。木場、洲崎、東陽、砂町といった、「下町」方面に足を伸ばすと、道端にお地蔵さんや小さな祠がたくさんある。この一帯は自然災害や人災に散々苦しめられた土地柄。その都度、たくさんの人が亡くなり、彼らの無念の魂を鎮めるべく、お地蔵さんや祠がたくさんつくられ、それが街の自然な風景となっている。これも江東区の風景なのである。

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(東雲にある「東雲延命地蔵尊」(個人所有))

 現在は政治と宗教は別物ということになっているが、江戸時代は違っていた。公家の子弟などが門跡寺院に入り出し、徳川幕府は寺院法度を作った。そこでは、本末制度が重視された。本末制度とは、宗派ごとに本山と本寺の地位を保障して、末寺を作らせることによって、ピラミッド型の管理をする制度のことである。1665年に徳川幕府は、諸宗寺院法度、諸社禰宜神主法度をつくり、僧侶と神主を管理した。また、徳川幕府キリスト教を禁止し、寺請制度(寺院が檀家を証明すること)を作り、宗門改めを行った。仏教寺院は江戸幕府にとっては重要な政治の手段、道具になったのである。

 政治から独立した宗教は自由である。だが、それは勢力を拡大できると同時に、消滅の危機も抱えることになる。それが象徴的に現れるのが今の湾岸部で、寺社、教会のない街並みが続いている。信仰をもつ人を除けば、誰も寺社、教会の設置について言わない、言いにくい、言うべきではない、と思ってしまう。政治家だけでなく、社会学者や宗教学者も何も言わない。彼らは都市と宗教の未来についてこのような具体例を通じてもっと発言してもよいのではないか。だが、そんな声は余り聞こえてこない。これも埋立地にないものである。