微積分の背後:第5話

ライプニッツの無限小概念

 

  (1)線分を無限に分割しても点はできない、

  (2)点を無限につなげても線分はできない、

という(単純なようで曖昧な)数学的命題をこの世界にそのまま適用するなら、この世界の「連続体」は意味不明なものになってしまう。すべての物体は何らかの空間的な広がり、つまり延長を持つ、としてみよう。今、物体の究極的な構成要素が物体的な原子であるとすると、前提よりそれは延長を持ち、延長を持つならば無際限に分割することができる。よって、その物体的な原子は自らをより小さな部分へと果てしなく分割することができ、(1)から、真に究極的な要素、つまり点を特定することができない。そこで、物体の究極的な構成要素が、物体的な原子ではなく、いかなる大きさも形も持たないほど小さいとしてみる。つまり、延長を持たない非物体的なものであって、数学的点と同じようなものとする。しかし、(2)より、数学的点を際限なくつなげていっても、点は点のままであり、点の集積から線分をつくることができないのと同様、非物体的な原子から連続体をつくることはできない。この二つの論証が含意するのは、さらなる別の仮定がなければ、非物体的な次元から物体的な次元への移行、あるいはその逆の移行についての演繹的な説明ができないということである。つまり、物体的な原子は原理的に存在不可能ということになる。

 ショッキングな結論に思えるだろうが、その理由は(1)と(2)の命題の曖昧さにある。(実際、実数について(1)と(2)を考えてみるなら、両方の命題とも古典数学では誤りである。)この「曖昧さ」を取り除くには長い歴史が必要だったのだが、その最初の辺りにライプニッツがいるのである。

 「無限小」とは、「0ではないが、いかなる有限量よりも小さい量のこと」だが、この概念を巡って今なお議論が絶えない。無限小を用いたニュートンライプニッツ流の微積分システムの不合理性はバークリーによって糾弾され、コーシー、ワイエルシュトラスらによる極限概念によって無限小概念を追放するという形で取り除かれた。だが、1960年代にA.ロビンソンが超準解析(Nonstandard Analysis)によって無限小を無矛盾な数学的概念としてもつシステムを構成する。それ以降も、ベルの「滑らかな」無限小解析など、無限小に関する議論は現在でも進行中。

 では、微積分を発見した一人であるライプニッツ自身は、無限小をどのように捉えていたのか。彼の無限小概念は曖昧だと批判されてきた。それには二つの理由が考えられる。まず、ライプニッツ微積分学に関して複数のアプローチを取っていること、次は彼の哲学における無限小の位置づけの複雑さである。

 ライプニッツ微積分においていくつもの方法を使い分けている。まず、実際に無限小を用いて直接的に証明する方法がある。ベルヌーイ兄弟らを介しライプニッツ流の微積分として一般に理解されているのは、0ではないが指定可能ないかなる正の実数よりも小さい新しい種類の数として、無限小が入り込むのである。dxは、ライプニッツによれば、他の量と比較して無限に小さい、あるいは比較不可能なほど小さい。ライプニッツは、任意の微分に対し、それより高階の微分は「比較不可能なほど小である」と考える。例えば、dxxに対して比較不可能なほど小さいし、ddxdxに対して比較不可能なほど小さい。したがって、この場合dxは無視できる量であり、dx = 0と見做してよいとライプニッツは考えた。こうして、2x+dx = 2x。よって、求める傾きは2xとなる。つまり、無限小量は0でないが、実質的に0である(dx = 0として無視できる量)。

 ライプニッツの無限小をめぐる次の困難は、哲学における無限小の位置づけ。ロビンソンはその超準解析によって無限小を数学的に厳密な概念として扱うことに成功した。通常の実数体Rアルキメデス性をもつ。アルキメデスの公理とは、「任意の正の実数 a、bに対して、n•a > bを満たすある自然数nが存在する」という公理である。実数順序体が「アルキメデス的」とは、任意の正実数 a、bに対し、ある自然数 nが存在して、a+a+•••+a(n個) > b となることである。「非アルキメデス的」とは、アルキメデス的でないことである。彼は論理学の形式的装置に基づき、非アルキメデス的順序体である、実数の超準モデルR*を構成してみせた。つまり、R*では、非アルキメデス的な対象であり、「いかなる正の実数よりも小さい数」としての無限小の存在に関する言明が成立する。ロビンソンは、このR*によって無限小を用いるライプニッツ流の微積分が正当化されると考えた。それは「極限」の観点からではなく、「無限小」の観点から解析の根本的概念を定義することを可能にするものだった。

 ライプニッツの無限小概念を理解するには、彼の認識論や形而上学、とりわけ数学的抽象概念をつくる際の精神や想像力のはたらきを検討しなければならない。彼が無限小を虚構とみなした理由は、それが指定不可能、つまり直接的かつ有限的に指示できないものだからである。隣の見知らぬ人の名前は直接に指定できないが、「隣の人」と間接的に呼ぶことはできる。無限小もそのような概念なのである。無限小のような極めて微小な量や間隔は、実際に構成されるわけでも、また知覚されるわけでもない。そのような対象は、私たちが想像することによって心の内でのみ表象される。ライプニッツによれば、感覚される像は不規則であるが、われわれは精神によって、それらに一様性や規則性を適用し、そのようにして完全な図形という像をつくると述べている。無限小は虚構だが、それでも実在的なのは、それらが想像される際、精神に基礎を置く法則や規則に従うことによる、と彼は洞察する。

 ライプニッツはまず虚構としての無限小という解釈を提示した。この無限小に関する存在論的主張は、無限小概念に基づく微積分の基礎に直接影響しない。だが、これらの主張のあいだには当然関係がある。ライプニッツは有限主義的な解釈と実在的な無限小解釈という相対立する解釈を自身の無限小に対して許容していた。というのも、ライプニッツは無限小の方法と有限的な方法の同値を主張しているからである。ライプニッツは『算術的求積』において、「不可分者の方法」をより厳密な論証へと改訂し、背理法に基づく求積の間接的方法と無限小を用いる直接的方法とが互いに同値になることを示している。

 ライプニッツは、有限量しか認めないギリシャ以来の伝統的な言語と無限小を用いた言語とが、結果の正確性と厳密性に関して、方法論的には同値であると主張する。つまり、彼は、一方の方法で得られた結果をいつでも他方の方法で再構成できる、と考えていた。数学的に正当化されていない無限小概念も、この同値の観点から彼はその使用を実用的に正当化している。だから、ライプニッツにとって、無限小の方法は思考や論証にとって便利であり、それと置換可能なアルキメデスの方法に取って代わるものだったのである。  ライプニッツは、無限や無限小を「虚構」と呼んだ。だが、彼にとっては、それらが虚構にしか過ぎないと認めることが問題なのではなく、虚構に過ぎないとしても、それが使い方の変更をもたらさないと言っているのである。つまり、無限小はその存在論的問題とは無関係に数学で無矛盾に使用できるという訳である。モナド微積分における実在する無限小として解釈したくなるが、ライプニッツは無限小の実在を明確に拒否する。

 ライプニッツは無限小を非アルキメデス的な量として定義し、実際にそれを微積分で用いながら、アルキメデスあるいはコーシー流の有限主義的な方法をその正当化として考えていた。このために、ライプニッツは無限小に関して曖昧だと批判され、また相対立する解釈を引き起こした。だが、それは有限主義的な方法と無限小の方法が互いに同値であるとするライプニッツの立場からは、何ら矛盾なく理解できるのである。

*超準解析についての説明は、日本数学会・市民講演会、1998年 角田譲「無限に小さいとは」を参照。これはWebで読むことができる。