微積分の背後:第6話

ε-δ論法の意義

 「xが一定値aに限りなく近づくとき、yは一定値bに限りなく近づく」と言われると、なぜかわかった気がしてしまう。xyの運動を想定してイメージしているからだろう。だが、これをじっくり考えだすと、次のような疑問にぶつかることになる。「限りなく」というのは終着点がないことだから、「限りなく…である。」という言明の真偽を決めることなど有限の存在である人間には不可能ではないか。さらに、「近づく」という表現は一体何を意味しているのかも気になってくる。数学の内容を日常語で適当に表現すると、思わぬ危険が控えている。特に、「無限」に関する問題に対して不用意に立ち入れば、ゼノンのパラドックスにたちまち巻き込まれてしまう。だから、厳密な数学的議論は第一階述語論理(first-order predicate logic)とその言語に基づいて行う必要がある。これを採用すれば、無限に関する議論を「有限の立場」で行うことができるので、様々な問題を解消することができる。

 例えば、上に述べた表現は次のようになる。

 

「任意の有限値ε>0に対して、xが|x-a|<δならば、|y-b|<εとなるようなある有限値δ>0が必ず存在する。」

つまり、

yb±εε>0)の範囲内でなければならないとし、このεをどんなに小さい数に設定されようとも、この要求に対して、xa±δδ>0)の範囲内ならば大丈夫、と言うことができるあるδを必ず提示することができる。」

ということになる。

 

 上述のように、今の解析学のテキストでは、「xaに限りなく近づくとき、xの関数  y = f(x)bに限りなく近づとは、任意に指定された正数εに対して、正の数δをうまくとって、|x-a|<δであるすべてのxについて|y-b|<εが成立するようにできることである」と定義されている。この定義を導入すると、極限の概念を伴う議論はすべて「任意に指定された正数ε」と「うまくとられた正数δ」によって表現できるようになる。数学の場合、定義は約束事であるから、その教科書を利用する間は受け入れるしかない。ただし、ε-δ論法による表記から「限りなく近づく」様子を思い浮かべるのは多くの人にとって難しいので、教科書や解説書は次のような説明をつけ加える。「正の数εを一つ好きなように取ってきて固定しなさい。それはどんなに小さくても構いません。私はその εに対して上手にδを選んで、ここに示しているような不等式が成り立つようにしてみせます。その操作が一度完結した後に、あなたは先ほどよりも小さい正数εを持ってくるかもしれません。でも、それに対しても、私はもっと小さいδを取ることができて、今度も不等式が成り立つようにできます。そして、この繰り返しをさらに続けることができるのです」と。正数εがひとたび選ばれ止められ、そしてδが定められ、一回の操作が終わること、一度選ばれ止められたεがこの操作の繰り返しにより動いていくこと、さらに上述の操作が何回繰り返されても成り立っていて、それが「任意に指定された正数ε」という言い方で表現されることなどを確認できるなら、「限りなく近づくこと」と ε-δ論法を結びつけることができる。εδは互いに「競い合い」ながら、お互いをより小さな値へと追い込んでいくのである。この言葉を使えば、ε-δ論法とは、それまで「限りなく」という言葉で表現されていた概念を「競い合い」の言葉で表現し直したものといえる。競い合う二つの有限値εδを用いて上から不等式によって押さえることにより、「限りなく小さくなる数」を表に出さないで極限に関する議論を展開することができる。これがε-δ論法の本質である。数列の極限などの場合は、δに代わって,「εに応じて大きくなるN」がとられることになる(ε-N論法)が、「競い合う二つの数」という考え方は変わらない。

 「競い合い」の仕組みを一度理解してしまえば、ε-δ論法は難解なものではなくなる。問題は、ε-δ論法による定義、定理、証明という標準の操作と表現だけからは直ちにそれが読みとれないことである。表現されようとしている状況を思い浮かべ、不等式は有限なεとδについての議論であることを十分認識した上で、定義、定理、証明を繰り返し読むと、ようやくそこに「競い合い」の考え方が見てとれるのである。

 

 このような極限概念に基づいて展開していく方法がε-δ論法と呼ばれるものである。この「有限の立場」は「有限か可能無限で考える」ということであり、「すべて有限で考える」ことではない。可能無限は何ごとも有限で収まるということではなく、「いつまでも続けられる、終わりがない」ということが可能無限の意味である。いつか終わる、最終ゴールがあるというのは可能無限でなく、その否定、つまり有限である。

 可能無限は無限の可能性を否定しないのに対し、有限はなんでも終わりがあると考えるので、無限の可能性すら否定する。だから、可能無限は、有限と実無限の中間に位置することになる。

 可能無限は、無限大に到着することがあると考えないだけ、無限大を否定も肯定もしない。それに対し、有限はどんなことも常に終わりがあると考えるので、無限大に到達する前になんらかの上限に達する。常に最大値を持っているから、有限は可能無限ではない。

 これらのことは、数列についても同じである。可能無限では、無限に続く数列を考えることは可能である。つまり、任意の自然数nに対して小数第n位が存在していることを認める。そして、いくらでも望むだけある数に近づくことができると考える。それが可能無限の考え方。それに対し、有限は有限でしか考えないので、「限りなく二つの数が近づく」などとは考えない。異なるどの二つの数も必ず差がある。無限に続く数列は門前払い。有限では、無限と名がつくもの、終わることなく続くものはすべて排除される。

 可能無限では1.414…という無限に続く数の列を考えることができる。だが、この数列が√2に到着するとは考えない。いくらでも差が縮むとは考えるが、一致することはありえない。そう考えるだけである。実際、解析学でも(上述のように)このような解釈がされている。

 有限では1.414…という無限に続く数の列など思考の範囲外。そんなものは存在したとしても、空しいもの、意味の無いものだと考える。有限では1.414…の…部分が明確でないということを理由に、そのような表現がどのような数を表しているのかわからないという理由で拒絶する。

 可能無限とは、無限個の対象の集まりは考えなく、どんな有限個の集まりにも入らないものが選べるものを無限であると考える立場。例えば、自然数では、1から100までの集まりに入らない101があり、1から1000に入らない5723があり、それらを選べる。このように何個集めてもそれに収まらない自然数があるので自然数は可能無限である。また、線分から何個点をとってきても線分からそれ以外の点を選んでくることができるるので、線分上にある点も可能無限である。

 一方、実無限とは自然数全体の集合のように実際にその集まった集合を考え、それが無限個あると捉える見方である。無限個あるということの定義は数学的には色々あるが標準的な数学ではそれらは一致していて、私たちの感じる「限りなくある」ということを厳密に表現している。標準的な数学では可能無限なものを集めた集合を考えることができ、その集合が実無限な対象として存在する。逆に、実無限である集合は常に可能無限的である。つまり、標準的な現代数学では可能無限を実無限と区別する意味はない。標準的な数学には無限集合が少なくとも一個はあるという意味の「無限公理」が仮定されており、この公理のおかげで様々な無限集合を実無限的に考えることができるのである。この公理を外すと無限集合の存在は保証できなくなり、実無限的な対象を考えることは不可能になる。つまり、可能無限であっても実無限ではなくなる。

 

 ニュートンライプニッツがつくり出した微積分学は、その根底に無限小(どんな正の数よりも小さな正の数)や無限大(どんな数よりも大きな数)といった実数の範囲では定義できない曖昧な概念を用いたものであり、このような状況はオイラーによって微積分学が大幅な発展を遂げる18世紀までそのまま続いた。当時の数学者たちは級数の発散や収束に関する議論を気にすることなく、理論を発展させることに邁進した。

 19世紀に入るとコーシーやボルツァーノらによって、厳密な議論に基づいて微積分学を再構築しようとする試みが始まる。この時期から収束や連続に関する議論は次第に厳密になっていく。ε-δ論法は1860年代のワイエルシュトラスの講義によって完成されたもので、これによって無限小や無限大という曖昧な概念を使わずに収束や連続を議論できるようになった(上述の説明は正にその説明だった)。