紫陽花考

 私が確かな観察眼の持ち主でないことは既に何度も述べてきた。今回もその不確かな観察眼が発端である。今は紫陽花の花が咲き頃で、最近は公園や庭先だけでなく歩道にさえ植えられ、梅雨の季節の定番になっている。梅、桜、藤、杜若など、日本人が好む花は大抵が大昔から好まれてきたもので、多くの文献、文学作品がその長い歴史を証明してくれている。「花を愛でるにはその花を知らなければならない」などと野暮なことは言わずに、素直に花を見て、その美しさを享受すれば十分だと、つい自分の観察眼や鑑賞力を過信してしまうのだが、今回もそうだった。

 手毬のような紫陽花を公園で堪能し、ガクアジサイと表示された小さな花の集まりを散歩道で見て、二つは同じ紫陽花なのかと疑問が湧き、さらには自分が紫陽花をどれだけ知っているのか不安になったのである。知覚像が日頃慣れ親しんだものであれば、私たちは安心してそれを受け入れ、時には情報として使い、時にはその像そのものを見て楽しみ、疑問や疑念をもたないのである。だが、その知覚像が何かわからないと不安になり、それが何か知りたくなる。厄介なのは、知覚像が何か一応はわかるのだが、それが正しいのかどうか一抹の不安を抱える場合である。この厄介な場合が私のアジサイ像に起こったのである。紫陽花についての常識は日本人が好きな花についての常識とは何か違う気がしたのである。その途端、紫陽花は謎に満ちた対象になったのである。

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 そこで、まずは紫陽花を知ろう。品種はガクアジサイとホンアジサイの2種類。ガクアジサイは日本原産だが、ホンアジサイは18世紀にヨーロッパに渡ったガクアジサイが品種改良され、手毬のような形になったもの。よく見かける大きな丸い花の紫陽花はほとんどがホンアジサイ。品種改良された紫陽花が日本に逆輸入された当時は「西洋紫陽花」とも呼ばれていた。

 紫陽花の花には両性花と装飾花の2種類がある。両性花は、繁殖するための雄しべ、雌しべをもった本来の花だが、ブロッコリーのように小さい花が密集した形になっている。装飾花は花びらではなく萼(がく)に色がついたもの。萼は花びらの外側にある花葉のことで、普通は葉と同じ緑色だが、紫陽花はまるで花のような見た目をしている。ガクアジサイはこの萼が花のように見えるからガクアジサイと呼ばれているのかと言うと、それも間違いでガクアジサイのガクは「額」のガク。両性花が額縁のように萼で囲っていることから、ガクアジサイと呼ばれる。では、花びらはどこなのか。ガクアジサイの花びらは、このがくの中心にある、小さい玉。小さな花びらが5枚ほどついた花が咲く。

 広く紫陽花と呼ばれているのは、このガクアジサイが変化したホンアジサイ。ホンアジサイは、小花がこんもりと密集して、球状になっていて、そのため「手毬咲き」と呼ばれる。ヨーロッパで作られ、セイヨウアジサイとも呼ばれ、日本に逆輸入された。  アジサイの漢字を「紫陽花」としたのは、平安時代歌人源順(みなもとのしたごう)。源順は、中国の白楽天の詩にある「紫陽花」の特徴から、ガクアジサイを同じ花と考え、この漢字を当てた。だが、上述のように紫陽花は日本原産だから、これは誤った命名。

 今では日本人に愛されている紫陽花だが、それは戦後の話で、それまでは大した関心をもたれていなかった。紫陽花が登場するのは『万葉集』が最初。『万葉集』には多くの草花が詠まれているが、紫陽花はわずか二首に過ぎない。つまり、奈良時代に人気があった花ではなさそうである。平安時代を代表する文学作品、『源氏物語』、『枕草子』、『古今和歌集』などには、一切紫陽花の記述がない。和歌には登場するが、紫陽花を詠ったというより、紫陽花を使った言葉遊びの歌ばかりである。

 小さな花が集まって球状に見える、手毬咲きの紫陽花の記録があるのは、桃山時代に入ってからである。この頃には画家による紫陽花画が登場する。狩野永徳の作品に「松と紫陽花図」があり、南禅寺所蔵の重要文化財である。江戸時代になると、尾形光琳俵屋宗達酒井抱一らが紫陽花を描いている。だが、紫陽花の人気はいまいち。芭蕉が「紫陽花や帷子時の薄浅黄」と詠み、北斎も「あじさいに燕」という絵を描いているが、庶民の関心は薄かった。幕末になって、紫陽花には欠かせないエピソードが生まれる。シーボルトはお滝という日本人女性と恋仲となり、彼は自分の好きな花である紫陽花に、「Hydrangea otakusa」(オタクサ)と命名しようとした。だが、紫陽花には既に別の学術名があり、認められなかった。シーボルトは帰国後、『日本植物誌』を著し、その中でアジサイ属の花14種を新種として紹介している。

 紫陽花の人気のなさは、明治になっても同じだった。中国に伝わっていた紫陽花は1789年ロンドンに送られた。1900年代のはじめにはフランスで育種がスタートし、セイヨウアジサイへと発展する。そして、大正時代には西洋で改良された紫陽花が日本に入ってくる。それでも、今日のように普及することはなかった。第二次世界大戦後、ようやく紫陽花人気が出てくるようになる。そのきっかけは、観光資源として注目されたことである。

 全国には、紫陽花の名所が数多くある。例えば、鎌倉の明月院長谷寺が有名である。紫陽花の名所となる寺は全国に拡がるが、なぜ寺に紫陽花が植えられるようになったのか。それは紫陽花が死者に手向ける花だと考えられたことに由来する。特に、流行病が発生した地域では多く植えられた。

 紫陽花の名所のほとんどは戦後のものということになると、少々興ざめな気持ちになるのは私だけではあるまい。日本原産で古くから存在しながら、日本人には好まれなかった紫陽花が戦後急速に人気を集めたこと、しかも紫陽花が極めて日本的だと多くの日本人が信じていることは一体何を意味しているのだろうか。常識はとんでもない誤解に基づいていることの証から知れないが、その前に人気の理由を見つけるべきだろう。恐らくは逆輸入された紫陽花の見事な花振りと紫陽花本来の栽培の簡単さにあったのだろう。それが戦後の経済成長に伴う観光ブームにうまく乗ったのではないか。

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 アジサイの花の色は、発色の色素及び補助色素、土壌のpHとアルミニウム量(一般に酸性では、アルミニウムイオンがアジサイの根から吸されやすくなり青変、またアルカリ性では、アルミニウムイオンが吸収されにくくなるので赤変)、開花からの日数などによって、様々に変化する。花の色は、クロロフィル(緑の葉緑素マグネシウムポルフィリン化合物)、カロチノイド(黄、橙、赤、紫のポリエン色素、カロチン、キサントフィル)、フラボン(白、黄色、無色の色素、ポリフェノールの一種、配糖体)などからつくられている。

 まずクロロフィルが色あせると、カロチノイドが目立ってくる。次にカロチノイドも分解し、フラボンが強くなり、青くなる。この頃、光合成によって葉が作った糖分が花の方にまわってくるので、アントシアニン(赤、青、紫、紫黒の色素、ポリフェノールの一種、配糖体)に変わり、そのあと胞液の酸でマグネシウムが分解し、カリウムが結合して紫に変化する。

 このように、アジサイの花は、緑、黄、青、赤、紫の順に変化する。この変化から「七変化」の名もあり、また、「移り気」の花言葉が生まれ、パリではお針子のペット・ネームとなった。

 アジサイは、日本では古くより、花を乾かし、煎じて飲むと、解熱薬となり、葉は瘧(おこり、マラリア)の治療薬用にもなると言われ、重宝されてきた。だが、アジサイは毒性があり、中毒を起こす。

 アジサイはヨーロッパに渡り、1790年頃にイギリス王立植物園に植えられ、欧州各地でも盛んに栽培され、品種改良も積極的に進められて、ピンク・赤・青などの多くの園芸品種が誕生した。これらのアジサイが逆輸入され、セイヨウアジサイとして公園や散歩道を飾っている。日本原産の花でありながら、日本に逆輸入され、その種類はなんと3000種類以上にも及ぶ。

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