ラプラスの悪魔と二つの反論

ラプラスの悪魔

 古典力学ではすべての物体の位置や運動は正確に一つの値をもち、それを完全に表現できると思われていました。十分な精度の測定装置を使えば、その位置を完全に指定し、表現できると信じられていました。運動も同様に、速度や運動量を正確に測定でき、その結果を表現できると考えられていました。また、ある時刻の物体の位置と速度がわかれば、次の瞬間の物体の位置と速度を完全に予測することができると考えられていました。物体が、ある時刻にある位置にあり、ある速度で運動していたとします。この物体にある力が働いていれば、一瞬後の物体の位置と速度を計算できます。ですから、これをもとに、次の状態、さらに次の状態を計算することも可能です。これを繰り返せば、ある時刻の物体の様子を把握していれば、遥か未来の様子も計算できるということになります。物体がある時刻にある位置にいることが前提されることと、その情報がきちんと表現できることの二つが古典力学では当然のこととして仮定されています。そして、このような仮定が可能であることが古典力学の特徴になっています。物体が特定の時刻に特定の位置をもつことは仮定であり、それを実数を使って測定でき、表現できることも仮定です。

 私たち人間は測定し、計算し、予測することを完全に行うことができません。測定は一定の精度でしかできず、計算もいつも可能とは限りません。不可避的に出る誤差の処理も不可欠です。ですから、せっかくの古典力学の仮定も単なる理想、絵に描いた餅に過ぎないことになります。

 そこに登場するのがラプラスの悪魔です。ラプラスの悪魔は、天才的な計算力と情報収集力をもっています。この悪魔はある時刻の宇宙の全ての情報を把握しています。また限りなく細かい時間刻みで、それらの情報から次の瞬間の状態を瞬時に計算することが可能です。少し想像すれば、ラプラスの悪魔がどれほど驚異的な存在かわかるでしょう。そんな計算ができるコンピューターは想像さえ困難なのに、その上宇宙規模で計算しなければならないのです。さらに、それが実際に起きるよりも速く計算できることも驚異的です。1秒後の宇宙を計算するのに、1秒かからないのです。0.01秒後の宇宙を計算するのでも、それより少ない時間しか必要としないのです。このラプラスの悪魔は、デカルトのいう完全性をもった神に似ています。こうして、ラプラスの悪魔は全ての現象を完全に予測できるという古典力学の仮定を実現する象徴的存在なのです。

 デカルトの完全な神をラプラスの悪魔のように考えると、神は宇宙の中には存在しないことになります。なぜなら、神が宇宙の中に存在すると、神は神自身を計算することになります。神が自由意思をもつなら、神は神自身を計算し尽すことができなくなります。計算できたら、自由意志はないことになりますから。したがって、宇宙の中の「神」という対象について完全に計算できないことになります。これでは神の完全性が成り立ちません。神が宇宙に対して完全であるためには、宇宙の外に出なければなりません。同様にラプラスの悪魔も宇宙の外にいなければなりません。

 ラプラス1812年の『確率の解析的理論』で次のように述べました。「もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。」

 再言すれば、世界に存在する全ての原子の位置と運動量を知ることができるような知性が存在すると仮定すれば、その存在は、古典力学を用いれば、これらの原子の時間発展を計算することができるから(仮定)、その先の世界がどのようになるかを完全に知ることができる、とラプラスは考えました。この架空の存在を、ラプラス自身はただ「知性」と呼んでいたのですが、その後広く伝わっていく内に「ラプラスの悪魔(Laplacescher Dämon)」という名前が定着することになりました。

 

<反論1:シュレーディンガーの猫>

 ラプラスの悪魔古典力学についての話ですが、その後の近代物理学を支えているのは量子力学です。量子力学では、どんな現象も完全には予測できません。すべての現象は確率的にしか表現できないと考えられています。確率的に表現されるとはどのようなことでしょうか。ある電子がある場所に存在する確率が約0.8、その周囲の場所1と別の場所2に存在する確率は約0.1ずつ、そして場所1と場所2より遠いところに存在する確率は約0 と表現されるのです。古典力学と異なり、ある電子が場所1にいるとは言い切れず、場所 1を中心に「このあたりに存在する可能性が高い」という捉え方しかできません。

 では、私たちが自然を見るとき、なぜこのような確率を意識しなくてよいのでしょうか。一つ目の理由は、たいていの場合、この発見できる確率の分布が限りなく一点に集中しているからです。原子の中の電子を測定すると、その発見できる確率は、原子の半径程度の範囲におさまります。つまり原子の大きさ、1Å程度を考えなければ、この誤差は気にならないのです。ですから、日常生活では何ら問題になりません。

 二つ目の理由は、たいていの場合、多数の原子の群れを見ているからです。日常生活で取り扱う物質には無数の原子が含まれています。全ての電子が、いっせいに古典的に想像される位置からずれる確率など、日常生活ではほぼないと考えて差し支えありません。

 でも、日常では無視できても、原子の世界では無視できません。この存在が確率で表され、古典的に考えたならばあり得ない場所にも存在し得るというところに、物理学者は注目しなければならないのです。現代の物理学者は、現象が確率でしか予測できないこと、またその現象を測定して確実に現象を把握すると同時に、それが確率でしか予測できない現象へと変わってしまうことを共通の常識として認めています。

 とはいえ、私たち一般人には信じられないことです。「観測するまで確率的にしか予測できない状態などあり得ない。正確に計算すれば予測できるはずだ」、「そんな確率という考えは原子の世界にしか関係なく、一般的な世界では無意味だ」と言い張る人が必ずいる筈です。

 そこで確率でしか予測できない現象が、日常にも影響する例として考え出されたのが、シュレーディンガーの猫です。これから問題となるのは、このシュレーディンガーの猫が生きているのか死んでいるのかを予測できるかということです。

 まず、シュレーディンガーの猫、猫を入れる部屋、毒ガス噴霧装置、ガイガーカウンター、放射性原子を用意します。猫を入れる部屋は中身が見えず、扉をあけなければ決して中のシュレーディンガーの猫の様子は分からないものとします。続いて、シュレーディンガーの猫と毒ガス噴霧装置を部屋に入れ、毒ガス噴霧装置の作動スイッチとガイガーカウンターをつなぎます。ガイガーカウンターのセンサーは放射性原子に向けておきます。

 放射性原子が放射線を出すかどうかは、先ほど説明した電子がどこにいるのかと同じく、確率によって支配されます。そうすると、過去にどれほど正確な測定をしていても、ある時刻に放射線が発せられるかどうかは予測できないことになります。確率に支配された放射線が引き金となって、ガイガーカウンターが作動するとなると、ガイガーカウンターの動作も予測できなくなります。そしてついには毒ガス噴霧装置の動作も、毒ガスによってシュレーディンガーの猫が死ぬかどうかも予測できなくなるのです。  装置のスイッチをいれた後、もはやシュレーディンガーの猫の生死は確率でしかわからなくなります。部屋をあけて観測しない限り、猫の生死という日常的な大きな現象も予測不可能になるのです。このように原子程度のものにしか影響しないと考えられていた、「確率による支配」が日常的な現象にも影響することを示す例えが、シュレーディンガーの猫なのです。なお、この実験はあくまで思考上の実験であり、猫を実際に殺す訳ではありません。

 20世紀の最初から始まった量子力学では、原子の位置と運動量の両方を正確に知ることは原理的に不可能(=不確定性原理)であり、原子の運動は確率的にしか把握できません。全てを知ることができないのなら、ラプラスの悪魔でさえも未来を完全に計算することはできないということになります。

 一方、エヴェレットの多世界解釈の立場を取れば、観測者も確率とは無縁であり、決定論的であると考えることができます。この解釈では、ラプラスの悪魔は古典的な意味とはまた別の意味で生き続けていると考えることができます。

 

<反論2:カオスが切り拓く世界観>

 カオス論は、近代以降の決定論的世界観を揺るがす理論でした。ニュートン運動方程式以来、最初の状態と状態の時間発展を記述する法則さえ得られれば、未来のあらゆる状態が予測できる、という考え方が古典的な科学を支配していました。これは最初に述べた古典力学の考え方です。この世界観によれば、複雑な出来事の未来が予測できないのは、その出来事を記述する式が複雑すぎて今の物理学では解き明かせないだけであり、将来その式がわかるようになれば予測可能になる、と考えられていました。ところが、そのような見込みを否定したのがカオス論です。

 カオスの最も大きな特徴は「初期値に対する鋭敏性」、つまり「最初の状態がほんの少し違っただけで、将来の状態は非常に大きく異なる」というものです。わずかな誤差がやがて想像もつかないような大きな違いを生み出してしまい、混沌とした状態が生まれます。これが「カオス」という名前の由来です。有効数字の最後の桁で切り捨ててしまうような小さな差が最終的に全く異なる結果を生んでしまうため、未来の状態を式から予測するのは事実上不可能です。カオス論は決定論的な世界観の中で考えても、予測できない未来が存在するという新しい事実を示しているのです。「カオス」という言葉は「混沌」と訳され、複雑なものを複雑に扱っているという印象を与えますが、非常に簡単な方程式からもカオス現象は現れます。複雑なものを見たときに、本当に複雑な要因のせいなのか、それとも単純な法則から生じたものなのか、改めて問い直さなければなりません。そのような提言をしたという点で、カオス論は大きな意味を持つのです。  カオスは今でこそ様々な分野で扱われていますが、その起源は数学にあり、19世紀のポアンカレの「三体問題」に遡ります。これは、天体など相互作用する三つの物体の運動を扱う問題です。この解法を求める中で、ポアンカレは複雑な軌道が見出されることに気づきました。当時、カオスという言葉はありませんでしたが、カオス現象の可能性はこの時期には発見されていたのです。 そして、ポアンカレのこの研究は、バーコフやスメールらに引き継がれ、力学系の理論として発展し、その後のカオスの数学的研究の基礎を作ることになります。しかしながら、それは数学の世界の中だけで議論され、まだ物理学には適用されませんでした。

 科学としての「カオス論」発展のきっかけとなったのは、ロバート・メイ(ロジスティック方程式)やエドワード・ローレンツといった人々でした。天気予報の式は難解な微分方程式で成り立っていますが、気象学者のローレンツはこれをよりシンプルな本質的な形に直して、1960年代前半に計算機を用いて数値計算を行いました。この式は初期値の僅かな違いで将来が全く予想できなくなってしまうという特徴を持っていたのです。ローレンツはこのことを「ブラジルで一匹の蝶が羽ばたくと、テキサスで竜巻が起きる」と表現しました(バタフライ効果)。

 実際にカオスがどのような場所に見られるのか見てみましょう。感染症の伝播などを扱う反応拡散系というシステムがありますが、このシステムでは感染症が伝わっていく速さの波の先端(フロント波)の動きが、特別な感染メカニズムを仮定するとカオス的な振る舞いをします。反応拡散系は感染症だけでなく、生態学や化学反応の分野でもほとんど同じ式を用いますので、それらの分野でも同じようにカオスが見られます。

 もっと身近な例となれば、水道の蛇口です。蛇口を絞ると、水滴一滴ずつ垂れ落ちる状態になります。このときの落下するリズムは非常に不規則で、これもカオスです。もう一つ有名な例がパイこね変換です。これは写像の一つですが、そのイメージは経験的に理解しやすいと思います。パイ生地の一部においたバターを全体に均一に伸ばしたいときは、パイを二倍に引き伸ばしてから折りたたむという操作を繰り返すと、最初一カ所にあったバターが生地全体に行き渡っていきます。これもカオスによるものです。  このようにカオスは身近なところに簡単に見られますが、実はその数学的定義は人によって異なり、誰もが納得するような定義はまだ存在しません。ここまで述べてきたのは、あくまでカオスの特徴です。カオスは無作為性とは異なりますが、そこにはある種の繋がりがあります。

 コインを投げて表がでたらA、裏がでたらBとして、試行していくと、ランダムなAとBの文字列ができます。これは確率論的な世界の話で、一見カオスとは関係ないように見えます。ところが、このような確率的に定めた配列をカオスで再現することができるのです。正しい初期値さえわかれば、表か裏かがコイン投げにより決定された配列と同じ配列が方程式により得られるのです。ただし、その具体的な値は誰にもわかりません。

 

*ここまで古典力学量子力学、カオス理論を象徴するラプラスの悪魔シュレーディンガーの猫、バタフライ効果などの話をしてきました。いずれもそれぞれ異なる主張がなされ、しかも互いに矛盾するような内容でした。一つの物理世界について三つの異なる主張があるとなると、いずれが正しいのかという疑問が出てきます。ところが上述の話はどれも正しそうな主張になっています。そこで、三つの話がそれぞれ正しいと考えることができる理由は何なのか、それを考えてみて下さい。一つの物理世界に三つの異なる話が成り立つのは一体どうしてなのでしょうか。