「知ること」と「信じること」から…

 この世界の人は大昔から自分が棲む世界についてとても異なる対応を続け、そのことを容認してきました。この対応は時には共存し、時には争い、まるで違う民族、国家のような関係にありました。そして、それは今でも続いています。その上、いずれかの対応の良し悪しに決着をつけることについての意見さえ分かれ、そのため膠着状態が保存されたままなのです。大半の人は二つの選択はすべきではなく、それは民主主義が通用しない事柄だと信じ込んでいます。

 「世界は何からどのようにできているか」という問いと「世界は誰がつくったか」という問いを比較してみましょう。現在の私たちなら、最初の問いには大いに親しみを感じても、二番目の問いにはまともに答える必要がないと思うのではないでしょうか。「私は誰がつくったか」には容易に答えられても、「地球は誰がつくったか」は無意味な問い、非科学的な問いで、答えること自体が無駄なことだと思われているようです。世界をつくったのは神だと言われるとき、神は何を使って、どのようにつくったのか、については誰も教えてくれません。神自身が教えてくれないのですから、誰にもわかりません。世界の創造神は創造の手口を明かさないのです。神は絶対的ゆえに誰も問い質せないままに時が過ぎています。

 世界が「何からどのようにできたか」に答えることは安打を打つようなもので、科学者は実証的に部分的な解答を与えてきました。でも、「誰がつくったか」に答えることはホームランを打つようなもので、神学者はそれを思弁的に一挙に証明しようとしてきました。

 次の二つの文句を比較してみましょう。

 「知らずに信じる」

 「知って信じる」

宗教と科学の違いは上の二つの文句の違いに帰着します。つまり、「信じる」ことがまず先で、次が「知る」ことだと言うのが宗教です。科学はまず私たちが「知る」ことに興味をもち、「知る」ことになり、次にその結果を「信じる」ことになります。「信じる」と「知る」の順序の違いが宗教と科学の違いと言う訳です。安直な区別ですが、前者が宗教、後者が科学と区別されることが通り相場で、科学と宗教の違いがここに集約されると思われています。

 私たちが世界の中で知ることは因果的、実証的な出来事ですが、信じることは心理的な出来事であり、物理的なものではありません。通常知ることは公共的で、知ったことは、情報や知識として互いに共有でき、記録され、活用されます。でも、信じることは心的で、それぞれの人のプライベートなことです。このように区別すると、知識と信念は基本的に異なるもので、混同など起こらず、二つのものはいつもしっかり区別でき、それゆえ科学と宗教の区別も明白だと思われがちです。

 でも、これこそが落とし穴であり、二つはしばしば混同され、そのために争いが起き、それが人々に悲劇を供給してきました。二つのもの、宗教と科学、信じることと知ることは違っていると思われながら、「知る」ことを構成する一要素として「信じる」ことが含まれています。二つは異なりますが、「知る」の一部は「信じる」ことなのだということになっています。また、手品のようなカラクリは、「何かを信じる」ことと「神を信じる」ことは根本的に異なるところにあります。私たちは敵を信じなくても、敵が言ったことを信じることができます。でも、神を信じるとは神のすべてを信じることです。  神が人の本性を知っていたなら、「知る」と「信じる」の間の関係をもっとしっかり理解し、私たちに教えていた筈です。それを見習うかのように、権力者は狡く、怠慢に、「知らなくてもよい。信じなさい」と神のやり方を巧みに使ってきました。

 このような対比のもとで、どんな寓話をつくることができるのでしょうか。それぞれの寓話をつくってほしいと思っています。