木場:栄枯盛衰

 江戸の下町は商業地域で、それが下町の独特な人情、雰囲気をつくり出し、その幾分かは今にまで続いている。山の手、さらにその郊外となると基本的に住宅地域で、下町と違って商業活動に伴う問題は少なかった。静かに暮らすには山の手が好都合だが、仕事の上で助け合うには下町に限る。かつての木場から新木場への、現在の築地から豊洲へのそれぞれの移転は、商業地域である下町特有の出来事なのである。職住接近の下町で人々が何度も味わってきた苦しみの一つが移転であり、人々は現在に至るまでそれに翻弄されてきた。下町の人々の特徴は下町の仕事に密接に関係している。人々の独特の人情は下町の仕事から生まれたものであり、仕事場が離れ、職住接近でなくなった現在、下町は別の特徴を求め出している。

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(広重「深川木場」名所江戸百景)

 さて、「木場」とは貯木場のことであり、貯木場は木材の集積場のことである。木材集積場は土場(どば)と呼ばれていた。貯木場には、水中貯木場と陸上貯木場の2種類がある。水中貯木場の歴史は古く、江戸時代に河川の河口周辺に材木問屋街ができ、その問屋街に付随してつくられた。陸上貯木場の多くは、木材運搬が陸送にかわる高度経済成長時代になってからつくられた。日本中の道路交通網の整備が行われ、木材も陸送での採算がとれるようになる。それとともに貯木場も水中貯木場から陸上貯木場へ切り替わっていく。

 ところで、江戸、東京の貯木場が海水交じりの運河だったのはどうしてなのか。水に木をつけておくのは素人目には解せないことである。まずはその謎解きから始めよう。木は水分があると腐るが、それには酸素も必要なため完全に水に浸かっていると腐らない。木は浮力によって一部水から出るが木場(貯木場)の人が定期的に回転させて腐るのを防ぐ。また、塩は保存料としての役割もあるので海水に浸かっていれば腐りにくい。

 陸上ではクレーンなどを使わないと動かせないが、水の中なら人力で簡単に動かすことができる。さらに、木場が港湾にあるのは海外からの輸入木材が大多数だからで、昔の木場は山奥で切った木を上流から流してくるので河口近くにあった。木材の材質が変わりにくく、乾燥による割れ、虫害・菌害などを防止して長期間の保存にも適しているなどの理由から、多くの木材が水面に貯木されたのである。

 とにかく、木を水に浸す一番の理由は「楽」だから。陸の上なら、1本の木を取るだけでもフォークリフトやクレーンを使わなければならない。これが水の中なら1人の人間が竿1本で簡単に動かせる。さらに、輸入材は船で入ってくるから。船の横から片っ端から水の中へ放り込めばよかった。だが、最近はフォークリフトの進歩で陸上でも作業ができるようになり、水面作業員の人手不足等で日本ではだんだん水面貯木はなくなっていく。

 水を抜くのに水の中に入れるのは矛盾するようだが、既述のように水の中につけておくて木は腐らないから安心して何年でもつけておける。水の中につけておくと非常に徐々ではあるが、木の組織中の水が抜けていく。これが空気中であれば、急激に抜けてすぐに割れが入るものが、水に浸かっていると割れない。丸太は水につけておくと心材(赤身)と辺材(白太)の乾燥の差が小さくなり、ヒビ割れがしない。また、ケヤキやヒノキは5年ほど水中につけておくと、辺材(白太)部分が腐って赤身だけ残る。驚くのは、こうした水中貯木の木は製材したあと乾燥させるときには外においておいた丸太よりも乾燥が早い。

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   この木場(貯木場)は隅田川の河口に設けられ、江戸時代初期から江戸への建設資材の集積場として発展した。特に江戸では明暦の大火などの大火災がしばしば起こり、その度に紀州など地方から大量の木材が木場を目指して運び込まれた。明治維新以降になると、木場の沖合いの埋め立てが進み、木場の目の前から海が姿を消す。1969年、貯木場の役割は新木場に移ることになり、貯木場は埋め立てられ、今の木場公園がつくられた。

 新木場の貯木場は小島によって南北に分かれており、北は14号地第1貯木場、南は14号地第2貯木場である。これらは現在でも貯木場として機能しており、京葉線や東京臨海高速鉄道りんかい線の車窓からもその風景を眺めることができる。だが、どこを眺めても丸太の列は見えない。既に丸太の形で木材を輸入する時代ではないため、貯木場のほとんどは使われておらず、不要となっているのである。何と海の空き地、空き水面が広がっている。そのため、新木場の再生に向けて様々な議論が始まっている。