貯木場と魚河岸

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 1972年貯木場水面を持つ134haの東京湾 14 号埋立地へ移転して誕生したのが「新木場」。移転の背景には江東ゼロメートル地帯と呼ばれた深川の水害対策という目的があった。臨港地区は港湾計画によって特定の目的をもつのだが、新木場地区は特定の目的のない「無分区」で、都市計画上は厄介な存在である。二つある貯木場には材木は見当たらない。木場に見られた水に浮く材木の光景は新木場には既にない。だが、木材業が廃れたのではない。木材の流通形態が変わり、新木場では加工された木材がもっぱら扱われ、貯木場を必要としないからである。

 新木場にはコンビニやガソリンスタンドはあるが、病院やスーパーは見当たらず、生活感が乏しい。それは新木場全域は地区計画で居住機能を制限しているためである。住居をもつ居住者は原則おらず、臨港地区でありながら、無分区であることから、色々な種類の人たちが居住者との不要な摩擦を避けられる場所として注目しているのも事実である。伝統ある木材の町としての誇りをもち、木材業の持続を望む声は強いのだが、新しい用途機能を受け入れて、湾岸の他の地域のような賑わいを生み出すことへの期待も存在している。

 新木場が抱える問題を列挙すれば、防潮護岸整備による安全な居住空間の確保、貯木場埋め立てによる土地の造成、より豊かな水辺環境の創造、環境共生産業の継続と展開、居住・文化・医療・教育機能の導入等である。

 新木場が中央防潮堤の外部にあり、高潮対策としての防潮堤が設置されていないことが居住を規制する根拠になっていて、港湾物流機能から多様な人々の活動の場へ脱皮しようとする新木場の発展への足かせになっている。現在の人口は、新木場1丁目11名、2丁目11名、3丁目37名の合計59名。江東区では夢の島若洲が0人で、その次に少ない。

 東京都港湾局が掲げる「自然環境の保全・回復」と「環境に配慮したみなとづくり」の二点は、環境先進都市を目指す東京の基本政策に対応するために考えられたものである。夢の島緑地と若洲海浜公園を繋ぐ重要な位置にある新木場にも生物多様性を促進し、都心から東京港へ南北にのびる風の道を確保する水辺の緑地を整備することが望まれていて、貯木場の水面の有効な利用が望まれている。

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(第1貯木場)

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(第2貯木場)

(2)

 「魚河岸」は日本橋と江戸橋の間、日本橋川の北岸に沿って、日本橋にあった魚市場である。17世紀の初めに開設され、1935年に築地市場への移転が完了するまで300年以上、人々の食生活を支えてきた。最初に魚市場を開いたのは、江戸幕府を開いた徳川家康に従って大坂から江戸に移住した森孫右衛門一族とその配下の漁民たちだった。彼らは幕府や大名に鯛などの御用魚を優先的に納めるかわりに、残余の魚介類の市中商いの許可を得た。

 18世紀に入ると江戸は人口100万人を超える巨大都市となり、魚河岸も大きく発展した。18世紀前半の記録によると、魚介類の問屋・仲買・販売業者数は500名にも増えていた。

 当時の江戸前の海は現在の東京湾よりずっと広く、環境もよく魚の宝庫だった。自然の生け簀状態で、遠くの海まで行かなくても大きな魚がたくさん捕れた。塩干ものなら陸路でもいいだろうが、鮮魚はそうはいかない。冷凍設備はないし、氷もないから夏場はたいへんである。ひたすら時間短縮のために人力で船を漕いで運んだ。この船が「押送船」。漁荷専用の船で、左右に四本ずつの櫓があり、八人で一斉に漕ぐ、いわゆる八丁櫓の高速船である。日本橋川を上ってきた押送船は日本橋河岸に横付けされ、平田船の上で仕分けの後、すぐ問屋の店先に並ぶ。問屋が荷受けをして全体を仕切るが、実際の販売は中間業者である仲買人が担当した。(この仕組みの基本は現在でもそのまま残っている。何とも古い仕組みであり、貯木場が用無しになったようなことが現在進行中であることは誰もが知っている。)

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 この魚市場から一心太助のような棒手振の魚売りが早朝に魚を仕入れ、江戸の町を売り歩く。料理屋の仕入れもここである。江戸城で消費する魚は、魚納屋役所役人が買い付けに来た。

 魚河岸は日本が近代国家になってからも存続して東京人の食卓に全国の魚介類を集荷・供給していたが、1923年の関東大震災の被災を契機に、東京改造計画で築地への移転が決まった。しかし、日本橋を去ることに反対する人が多く、移転完了には決定から10数年を要した。

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