思想の違い:パラダイム

  人を批判し、それによって自らの主張を認めさせることがいつの間にか哲学や思想の常套手段となったことがあった。哲学や思想の世界はずっとそうだったと思っている人も少なくないだろう。先人の成功を受け入れ、それをさらに進展させるのではなく、批判し、否定し、自らの説を展開し直すという繰り返しの風潮がカント以降一層顕著になってきたように思えてならない。生意気な若者たちが増えることによって、イギリスの経験論やドイツの啓蒙思想は支援者を増やし、膨張を続けることになった。もっとも、それはギリシャ以来の西欧の伝統なのかも知れない。

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キルケゴール

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ヘーゲル

 キルケゴールもそんな一人で、マルクスニーチェと同じようにヘーゲルを乗り越えることによって自分の思想を構築、展開し、新しい時代の導き手となった思想家である。マルクスも同じように、ヘーゲルの思想に学ぶというより、その観念論的性格を問題視し、観念論から唯物論への転化を図った。つまり、マルクスヘーゲルをひっくり返すことによって、自分の思想をつくったと解釈されている。ヘーゲル主義者から見れば、これはヘーゲル哲学の誤用、悪用でしかない。

 これに対して、ニーチェヘーゲルに集約されるような西洋的な知識の全体に対して異議を唱え、それがもはや意味のない念仏でしかないことを露骨に暴露した。ニーチェもまたヘーゲルを自らの主張のために利用したのである。近代の思想的な戦いのたちの悪さ、品のなさが透けて見える。ニーチェの言う「神は死んだ」という言葉は、ヘーゲルを巧みに利用し、ヘーゲルに集約される西洋的な知識がもはや意味を持たなくなったという事態を指している。だが、実際は西洋的な知識が知識の典型として今でも世界中に通用し続けている。

 先人の批判は必要だが、その批判を悪用して、自らを売り込むことは控えるべきなのだが、ニーチェマルクスもそんなことはお構いなしで、勇敢そのものである。かつての節度あるアラビアの注釈家たちには、考えられないほどに自分勝手なエゴイストに映るのではないか。人の褌で相撲をとって恥じることがないという点では、福澤諭吉の「瘠我慢の説」を読み直してみたくなるのは私だけではないだろう。

 科学の進歩は直線的で連続的だという考えは素朴に過ぎ、科学もパラダイムの転換によって不連続的に多様な方向に変化するのが正しい姿だという考えが20世紀の後半を風靡し、科学と思想の間が意外に近いことが多くの人に認められた。だが、まともな科学者は自分の属するパラダイムの中で仕事をしなければ成果をあげることができず、パラダイムについて議論するのはやはり哲学者や思想家なのである。パラダイムの転換によって科学理論の変化を捉えるのは思想であり、科学と思想の関係に貴重な見方を提供したのは大きな出来事だった。

 さて、肝心のキルケゴールはどのようにヘーゲルを乗り越えたのか。この問いが文句なく重要だと言われているのだが、何がそれほど重要なのか問い直してみてほしい。「乗り越える」などという行為を彷彿とさせる表現が何を意味しているのだろうか。それはキルケゴールの私的な事柄であって、どんな人にも同じように有意味かと言えば、そんなことは到底ないのである。現代人の多くにとって、「キルケゴールヘーゲルを乗り越えた」ことは既に何の意味ももたないのではないか。キルケゴールヘーゲル存在論を批判するとともに、ヘーゲルの体系の非人間性について告発したのだと言われると、そうなのかと無気力に反応するだけなのではないか。

 まず、ヘーゲル存在論について。ヘーゲルは、存在と思考を別のものとは考えなかった。絶対精神が物的現象として現れれば、それは外的な自然となり、精神的現象として現れれば、人間の思考、つまり精神となる。だから、人間の認識活動では客体と主体とが一致するのは当然のことである。対象の世界は究極的には本質として捉えられるが、その本質と存在とは一致する。本質も存在も絶対精神の契機に過ぎず、一つのものがそれぞれ二つの別のものとして現れているに過ぎない。だから、本質と存在は同じもの、という結論になる。

 これは、本質と存在とは別だとするカントの主張とははっきり違う。本質は人間の認識活動にかかわる概念であるのに対して、存在は認識活動の外部にあって、しかもそれを触発するものである。その存在自体をカントは「物自体」と呼んだが、その物自体を私たちは捉えることができない。私たちができるのは、認識活動の相関者としての現象であり、存在そのものではない。これがカントの主張なのだが、キルケゴールはある意味、このカントの主張に戻って、ヘーゲルの観念論を批判する。

 本質と存在とが同じものだとすると、どういうことになるか。まず、神の実在性にリアルな根拠が与えられる。なぜなら、本質と存在とが同じものなら、神の本質には存在の規定も含まれているから、デカルトが展開した神の存在論的証明に根拠を与えることになる。神は全能であり、全能でありながら存在しないことはありえない、よって神は必然的に存在する。それをヘーゲル存在論的にも必然的であるとした。なぜなら、本質と存在とは同じものだからである。

 神が実在性をもつ一方、人間の認識活動の方は本質性をもつようになる。なぜなら本質と存在とは同じものであり、私たち人間は絶対精神の現れなのであるから、私たちのうちで本質と存在とが一致することには、少しの不思議もない、というわけである。そして、個々の人間は絶対精神が個別化して現れたものであるから、その本質は精神的な存在である。ここまではキルケゴールも異存はないのだが、ヘーゲルはその精神的な存在がひとつのかけがえのない存在ではなく、存在という抽象的な概念の一つの例に過ぎないと考える。つまり、個々の存在者である私たち人間は、個性をもった存在者なのではなく、存在者と言う一般的な概念の一つの例に貶められてしまうのである。ここがキルケゴールには我慢のならなかった点である。そんな人間は人間ではない、とキルケゴールは主張する。キルケゴールヘーゲル哲学の非人間的な性格に反撥した。その非人間性とは、人間を実存している個性的な存在としてではなく、抽象的な概念に解消されてしまうようなものとして見る見方である。個々の生物個体としての人間と、ホモ・サピエンスとしての人間の違い、生物個体と生物種の違いを認めるか否か、という点でヘーゲルキルケゴールは意見が分かれるのである。

 だが、実際にそういう人間は存在している。個々の人間としての自覚を持たず、大勢の人間の一員であることに安住しているような人間である。むしろ、そういう人間の方が社会には溢れている、とキルケゴールは考え、それを人間の「水平化」と呼んで深く軽蔑し、個別的な存在者としての人間こそ真の人間だと主張した。キルケゴールにとってこの場合の人間であることとは、一人の個別的存在者として神に向き合えるような人間のあり方である。ところが現代社会では、人間は個別者として神に向き合い、そうすることでキリスト者になるのではなく、教会のメンバーとして洗礼を受けることでキリスト者になれる、と考える。その方が楽だし、世の中はそれでうまく動いていくものだとキルケゴールは述べるのだが、21世紀の人々はそれを既に過去の遺物としてしか捉えないのではないか。

 とにかく、キルケゴールは徹底的にヘーゲル哲学を批判する。なぜなら、ヘーゲルこそが、人々に人間を軽蔑させるように仕組んだからである。ヘーゲルの狡知を取り除き、人々にもう一度人間を尊敬させるようにしなければならない。いや、だれもが一人の人間として神に向きあえるようにしなければならない。キルケゴールヘーゲルの主張に反対し、人間の特徴づけをヘーゲルとは違い仕方で行った。キルケゴールヘーゲル人間についてパラダイムが違うのである。