落語「佃祭」から

 住吉神社の大祭「佃祭」の賑わいを見に行った次郎兵衛の話を志ん朝がしていたのを想い出す。その話はさておき、経を上げていた住職が帰り際、「情けは人の為ならず」と説教、同席者みんなで納得しあうというくだりがある。情けは人のためだけではなく、いずれは自分にそれが返ってくるという教訓なのだが、最近は「情けはその人のためにはならない」という意味で使われることがしばしばある。

 なぜこのような意味で使われるのか、国語辞典によれば、もっともらしい理由が書いてある。「…は人のためなり」を打ち消しの「ず」で否定すると、「「…は人のためなり」ということではない」ということになる。だが、打消しの「ず」が「ためになる」にかかっていると、「ためにならない」となる。つまり、「情けは人のためにならない」となる。

 この曖昧な説明でわかったと思う人は少ないだろう。そこで、もっと納得できる説明を考えてみよう。そうでないと肝心の落語「佃祭」がしっかり味わえない。

 正しい意味は「人のためではない情けもあるのだ」で、「情けは人のためにはならない」は誤り。「情けは人のためなり」を否定するのだから、「どんな情けも人のためなりではない」、つまり、「ある情けがあって、それは人のためではない」となる。この最後の文は「情けの中には他人のためではなく、自分のためのものもある」という意味である。論理的には全称肯定文の否定は特称否定文であることの一例である。

 誤った意味の方は、全称肯定文の否定としてではなく、全称否定文と考えたのである。「どんな情けも人のためである、ということはない」と「どんな情けも人のためではない」とははっきり違う。 確かにそのように考えることが最初から誤りという訳ではない。要は、「情けは人のためなり」の否定をどのように表現するかという日本語の問題なのである。

 「情けは人のためならず」という謂い回しの由来を正しく知らないと、その意味が確定しないというのは日本語が欠点をもつことの証拠である。だが、そんなことは日本語に限らず、自然言語にはよくある話で、それをうまく使って、「佃祭」の落ちを「梨」ではない別のものにする脚本が浮かんできてもよかったのではないか。