補足:「情けは人の為ならず」

  落語も住吉神社も脇役に過ぎず、主役は諺だったのに、その趣旨がうまく伝わらなかったようなので補足しておきたい。この種の話は論理学を知っている人なら、実につまらない話で、論理式の変形だけの話なのだが、記号を使えないので、少々遠回りに話になることをご容赦願いたい。

 現代人に対して、この諺を読んで、「情けは人の為だけではなく、いずれ巡り巡って自分に恩恵が返ってくるのだから、誰にでも親切にせよ」と理解せよ、というのは難しい。だが、それが本来の意味なのである。

 20世紀も半ばを過ぎると、この諺を「情けをかけることは、結局その人の為にならないので、すべきではない」という意味だと解する人が増え、それは今でも変わらない。この諺の原義と異なる解釈が広がる理由は何だろうか。まず、中世の日本語の言葉遣いでは、「人の為ならず」の解釈は「人の為(に)なる+ず(打消)」(つまり、「他人のためになる」ことはない)という「部分否定」である。だが、それを誤って「他人のためにならない」という「完全否定」と理解してしまうのが現代日本語をを使う私たちなのである。現代日本語では「人の為ならず」は「人の為にならない」なのである。「人の為にならない」を中世の日本語を使って表現すれば、「情けは人の為なるべからず」となる筈である。だが、現代の私たちは「人の為ならず」を「人の為にならない」と現代日本語で理解するのである。

 これは日本語だけの話でなく、(微妙にニュアンスは異なるが)英語にも完全否定と部分否定の違いがある。次のような例を学校で習ったはずである。

<完全否定> I do not know anything about it.(私は、それについて全く知らない。) <部分否定> I do not know everything about it.(私は、それについて全て知っているという訳ではない。)

 このような関係を論理学の用語で表現すると、「全称肯定の否定は特称否定、特称否定の否定は全称肯定」である、となる。