流行

「感じる流行」と「事実としての流行」

 普通の乗用車を見ていると、その型が新しい、古いと敏感に感じる。流行のデザインを直感し、買いたくなるのだが、では、なぜそのデザインがよいと感じることができるのか。知識や情報が十分にあることによって、そのデザインがよいものだと判断できるのだろうか。確かに乗用車について詳しい知識や情報をもっていれば、流行のデザインに敏感になれるが、それだけでは説明し切れないものがあるように思われる。それはセンスのような感性である。どうして「新しい、斬新だ」という感じと「古い、時代遅れだ」という感じを私たちは直感的にもつことができるのか。どのような理由で新しいのか、古いのかは、知識を使って説明でき、それによってわかるのだが、最初に古い、新しいと感じ取れるのは知識や情報では説明がつかない。

 衣食住のあらゆる事柄に流行があり、そのどれからも新しいものを求める人の姿が見て取れる。私たちは新しいもの、斬新なものに異常とも言える関心を示してきた。だから、流行は日常生活のほぼすべての場面に存在し、不思議なことにそのすべてに私たちは目敏く反応してきたのである。むろん、反応をし忘れたり、的確でなかったことは結構な割合で存在する。

 流行はとても世俗的な現象で、あちこちに始終あるのが当たり前と思われている。この世では時代や地域に応じて人気のある仏様や聖人さえ違っている。だが、天国や極楽に流行があるとは信じがたい。では、ミクロの世界に流行はあるのだろうか。マクロな物理世界には確かに誰もがあると思っていて、私たちはマクロの世界で流行に右往左往している。流行がなければ歴史などないと主張するかのように、流行が人間の日常世界を支配してきた。だから、社会学者にとっての重要な研究分野は流行であり、それを飯の種にして研究している研究者は相当数いて、興味深いな研究対象だと思われている。

 では、流行とは何なのか。「流行り、廃れる」のが私たちが売り買いする経済世界であり、日々私たちは流行を経験している。古いものに飽き、新しものを求め、それを流行らせて儲け、流行に後れて損をするのは人の世の常である。経済とは流行の算盤勘定で動いている。何かが満ち潮のように世界を満たし、それが引き潮のように消えていく。それが社会現象の姿であると思われてきた。

 流行が歴史をつくることは科学の歴史にもある。科学のパラダイムの変化が流行に支配され、その流行が認識上の流行でもあることから理解できる。だから、科学に歴史があるということ自体、それは人間的な認識の特性によって科学が生まれ、変わってきたことを間接的に証明している。

 現在の社会の根本的な流行は情報である。情報が流行とほぼ同義と言っても構わないほどに現代は情報に支配された社会である。流行を引き起こす手段はこれまで様々なものが使われてきた。そして、結局情報こそが流行を生み出す源だということになった。流行は情報の伝搬によってスピーディに拡がる。新聞、ラジオ、テレビ、インターネット、携帯電話と、情報を送受信する手段が発達し、それによって流行の形態、現象も大きく変化してきた。

 人など介在しなくても流行はある。生命が誕生して以来、進化を引き起こしてきたのが適応(adaptation)。適応の違いが種を生み出し、種を絶滅させてきた。つまり、適応が流行を生み出してきた。適応の形態は自然選択の結果であり、選択基準は複数あり、そのどれかが選ばれることは模倣され、流行する。生命現象がパターンや形態をもつということは、それらが時間的に流行することを含意していて、それが生命現象の大きな特徴になっている。生命のパターンや形態の存在は適応の結果であり、それゆえ、現存する生物種の存在自体が流行しているパターンや形態なのである。

 さらに、心をもつ私たち人間となると、人間社会での流行現象は一層顕著になる。私たちの心はそれぞれ異なる好奇心をもち、その好奇心が流行に関わっている。何にでも同じような関心を公平にもつことなど私たちには到底できないことである。私たちの好奇心はむらがあり、不公平で、偏向している。だから、個性ある好奇心から生まれる流行も偏りや不公平に満ちている。好奇心は公平でも平等でもない。好奇心が生得的なものであることは、正に生物進化が流行に左右され、流行を操ってなされてきたことの証左なのである。大袈裟に言えば、生物進化の過程は流行の過程なのである。集団の持続や絶滅は流行に支配されている。

 生物進化の流行など多くの人は関心をもたないが、その同じ人たちは人間社会の流行には強い関心を示す。流行に振り回されるのはいつも私たちである。流行は時には敵になり、別の時には味方になる。日常生活のほぼすべては流行に支配されている。日常とは流行の集合なのである。習慣は流行によってつくられ、その習慣は新しい流行を阻害する。

 私たちを惹きつけるもの、好奇心を掻き立てるもの、それが流行である。流行は実は枯れ尾花なのだと賢者が説いても、流行があることによって変化が生まれ、社会は動いていく。流行が歴史をつくり出すのであるから、流行こそ社会の本質なのだと賢者に楯突くのが正しいのだろう。かつて芭蕉は「不易流行」を蕉風俳諧の本質として提起した。「不易」は時代の新古を超越して不変なるもの、「流行」はそのときどきに応じて変化してゆくものを意味するが、両者は本質的に対立するものではなく、真に「流行」を得れば、おのずから「不易」を生じ、また真に「不易」に徹すれば、そのまま「流行」を生ずるものだと考えられている。これを少々強引に「感じる流行」と「事実としての流行」との違いと解釈すれば、芭蕉の考えを文学以外にも敷衍できるのではないか。