「知る」と「信じる」への破壊的な見方

  アングロサクソンの知識論の基本的主張となれば、「正当化された真なる信念が知識である」ということに尽きる。知るための条件の一つが信念であることから、信じることがないと知ることが成立しないという構図になっている。さらに、知ることは、信じることに真であることと正当化されていることとの二条件が加わる。だが、これは何とも退屈な捉え方で耐え難い。この主張へのゲティアの反例だけでなく、「知識=正当化された真なる信念」という主張自体が空虚で、退屈な習慣に過ぎないという印象を与える理由を最短で示してみよう。

 わかる、わからない、信じる、疑う(信じない?)という表現がそれぞれ異なることはまず棚上げして、次のようなシナリオを考えてみよう。

 

A君は自分が知っていることを基本言明と仮定して、理論をつくった。

Bさんは自分が信じていることを基本言明に仮定して、理論をつくった。

 

二人の理論はそれぞれ験証が行われ、さらに理論としても数学的に同値であることがわかった。つまり、A君とBさんの基本言明は経験的に正しいだけでなく、論理的に同値でもあるとわかったのである。にもかかわらず、A君はそれらを知っており、Bさんはそれらを信じているのである、ということになる。理論として同値であるなら、その理論を知識とみるか信念とみるかの違いということになる。杓子定規に考えれば、A君の知識とBさんの信念は根本的に異なるものだから、このシナリオは誤っているに違いないとなるのだが、実際にはどこにも違いは見出せない。違いがないということが意味しているのは、知識と信念の違いについて、それを見直そうということである。

 そこで、ある言明Cとその言明Cが真であるという言明が同じである、つまり、

 

(1)Cと「Cは真である」とは同値である

 

を使えば、Bさんが信じている言明は理論として験証されて、「正当化された真なる信念」の条件を満たし、Bさんの知っている言明になり、A君と何も違わないことになる。  こうして、「信じる」ことと「知る」こととの間には、(1)を援用しなくても、情報に関して違いはないということになる。私たちがそれをBさんのように信念システムと呼ぼうと、A君のように知識システムと呼ぼうと、それらのもつ情報は基本的に同じものなのである。

 確かに私たちの経験世界では「知る」ことと「信じる」こととは随分と違う。意識の中味について、それは知っていることなのか、信じていることなのか、あるいは両方なのか、私たちには判然としない。また、無意識とは知ることや信じることがどのようになっている状態なのか、やはり私たちにはわからない。私たちが何かを意識すること、しないことが知ることなのか、知らないことなのか、はたまた信じることなのか、そうでないことなのか、よくわからないのである。こんな基本的なことでさえ、今の私たちには意見の一致をみることができないないのである。

 だが、例えばAIの場合、「知る」と「信じる」を区別しないでプログラムが組まれることは大いにあり得ることである。実際、将棋やチェスのAIソフトは区別していないだろう。それなら、「知る」と「信じる」について何ら違いはないということになる。これはAIの強大なメリットである。なぜなら、そんな哲学的な議論に巻き込まれることなく、本題に直接入ることができるからである。

 では、「知る」と「信じる」を区別しようとしてみよう。すると、早速困る問題は、どのように区別するとよいのかの普遍的な基準がないことである。上述のように、意識するとは信じることなのか、それとも知ることなのか、私たちは旨く答えることができないのである。こうして、「知る」と「信じる」とを区別する基準をもてないことになる。基準がもてないなら、そんな基準はないと開き直るのも一つの手ではないのか。

 最後に、「信じる」ことがこれまで与えられてきた役割について述べておきたい。「信じる」の反対語は「信じない」であり、「疑う」ではない。神や理論を信じない場合、神の存在を否定する、理論が偽だと思うことが想定され、「神を疑う、理論を疑う」より強い主張である。一方、「疑う」の反対は「疑わない」で、これは「信じる」と同義で使われる場合がよくある。何とも恣意的で、無政府状態に近い。「信じる」は認識と信仰の両方に関わるだけに実に扱いが厄介な言葉である。