信念の言い分

意識内容は信念として表現されるのが普通である。その信念が事実の世界とは独立した内容をもつためには、事実を述べたもの、つまり、誰もが同じように知ることができるもの(知識)と異なることが必要だと考えられた。これは理解できることである。だから、意識が事実とは異なるもので、事実と対峙できるものであるために、その内容である信念が事実を表現する知識とはきっぱり異なることが、意識の外部世界からの独立には必要だったのである。

 

実在世界と意識世界が並び立ち、互いに平等であるためには意識内容である信念が知識とは異なるものとして存在し、それが意識の存在を間接的に証明するということがデカルト以来多くの人に認められ、主観性が客観性に劣らず重要だということの証になってきた。心、精神、意識が物理世界と並んで市民権を得て、時には物理世界をコントロールする力を有すると受け取られることになった。個人の尊厳とは個人の意識のそれだった。

 

こんなことが(私の)信念の存在を声高に認める理由なのかも知れないが、やはりどこかに無理があることは否めず、それは意識の存在の無理強いに過ぎないというのが醒めた大人の答えではないのか。信念とは世界についての信念であり、信念が独自の指示対象を産み出せる訳ではないとリアリストたちは考える。そんなことをしたら、それは妄想でしかなくなる、というのが科学者たちの一般的な意見である。

 

自らについての信念、つまり自意識は外の世界についての信念に基づいて作られる。事実に裏打ちされた信念からなる「私」とは、確かに私の世界であるが、その私の世界は世界の一部である。私は私が住む世界の一部として意識され、いつの間にかその世界の主人公にまで昇りつめることができる。「私」の際限のない拡大は意識の特性として可能だとはいえ、私はこの世界の存在の一つに過ぎないことは厳然たる事実である。主観が客観に並び立つのは一時の夢でしかない。

 

こうして得られる教訓:信念は「私」の意識の本体そのものなのだが、自意識に節度をもたせるには信念が事実に基づくものであるという楔が必要なのである。節度ある「私」は事実による信念の指導によって生み出される。