(2)花を感じ知る:麹(糀)とヤマブキ

  彼の家は味噌をつくっていた。味噌の仕込みは2月末から3月にかけて行われていた。煮た大豆をつぶし、そこに麹と塩を加えて暫く寝かすと発酵が進んで味噌ができるという、とてもわかりやすい仕組みなのだが、何かをつくり出すことへの子供の好奇心は強く、彼もその仕組みは感じるのではなく、知っていた。

f:id:huukyou:20170721055518j:plain

 麹は日本で糀と書かれたように、米の表面に花が咲いたように見える。白から薄い黄色の綿のように麹菌が繁殖するのだが、さすがに彼のような子供に糀の化学がわかる筈がない。だが、その過程は感じ知っていた。蒸した(うるち)米に麹菌を加えて二日ほどで麹ができるのだが、その間発酵を促すために小さな折に分けられ、40度ほどの室で保存される。祖父たちと室に入っての仕事は冒険のようだった。まだ冬なのに、室の中は熱帯で、汗びっしょりになった。できたばかりの麹の表面は正に花が咲いたかのように柔らかく、綺麗で、彼にはどう見ても花にしか見えなかった。折の中は満開の花畑で、ビロードを敷き詰めたかのようだった。

f:id:huukyou:20170721055542j:plain

 彼の最初の花が麹というのは奇妙ではあるが、わからないことはない。彼の普通の花の経験はまともで、その花はヤマブキだった。彼の家の裏庭の斜面一杯に八重の花をつけるヤマブキが群生していて、4月中旬には黄色い花をたくさんつけた。花の黄色と葉の緑の強烈なコントラストに目を奪われたのだが、その黄色体験は後にヒマワリで追体験される。暫くして、ヤマブキもヒマワリも数本では駄目で、群生するからこそのヤマブキ、ヒマワリなのだと勝手に決めつけられることになった。

 

*「感じる」と「知る」の分離によって、どのように知るかではなく、何を知るかに答えを出そうというのが科学の真っ当な目標である。「感じる」ことの情報処理として「知る」を捉え、二つをうまく分離することが「どのように知る」ことだと、つまり認識することだと考えられてきた。それはその通りなのだが、感じることを過程として捉え、その過程の処理を知ることだと解釈するだけで、それがどうして知ることになるのかは説明されていない。つまり、情報理論だけでは「知る」ことは知ることができないのである。「知る」ことは「真偽をもつ言明を知る」ことであり、そのためには理論や前提の結果として説明できなければならない。真偽の基準があり、真なる言明として導出されなければならない。「どのように知る」かは認識される情報処理のプロセスだけでなく、そこで前提される理論から演繹される必要がある。

 こうして、「知る」ために肝心なものは認識論や情報理論ではなく、関連する理論(知識)である。「感じ知る」ことを分離し、「感じる」ものを情報として捉え、それを処理することによって言明をつくり、その言明が理論から導出できるかどうか調べることによって「知る」ことができるのである。

 「感じ知る」経験は私たちがする経験の中では些細なものに過ぎない。私たちにとって重要な経験となれば、それは生きるための経験である。経験科学の経験は私たちの日常経験の中では些細なもの、当たり前のものに過ぎない。このように思われてきた。だが、単純な経験に基づくものが経験科学で、複雑な人生経験はそれとは異質な経験だというのは過去の幻想に過ぎない。どんな経験でも「知る」対象にするのが貪欲な科学であるから、科学は自ら経験の範囲を狭めることなど決してしない。人生経験さえ科学は対象にしようと狙っているのである。