物自体、現象、そして仮象

 (いずれも遺物と紙一重で、心して捉えるべき概念)

 「仮象(Schein)」とは架空のもの、フィクション、創作のことです。ですから、文学作品のように仮象は実在しなくても有意味で、有用な場合が数多くあります。プラトンは「イデア」こそが真の実在で、感覚する現実は信用できない仮象だと断じました。また、カントは自我とか主観が超越論的には「仮象」であると言っています。カントは、主観の形式によって構成されるものを「現象(Erscheinung)」と呼び、主観を触発するにもかかわらず、主観によっては捉えられないものを「物自体」と呼びました。誰にも捉えられないものが存在するとは実在論的な主張ですから、物自体の存在は実在論的な主張ということになります。

 今の私たちは自然現象や社会現象として天変地異、戦争や貧困を思い浮かべ、それらを生み出す要因や原理をそれら現象とは区別して捉えます。その意味では、現象は物理世界や社会の出来事や変化のことと同じです。カントの現象は主観が生み出すものですが、私たちの現象は物理世界の変化のことで、まるで違っています。こうなると、カントの「現象」、「物自体」、「仮象」は今の私たちには判じ物でしかなく、遺物となった概念と言っても構わないと思います。

 でも、カントの「現象」と「物自体」の区別は、ドクサ(仮象)とエピステメー(真の認識、知識)というギリシャ以来の区別とは異なり、当時とすれば驚くべき新機軸だったのです。例えば、カントによれば、科学者が認識するのは「現象」なのですが、それは物自体でも仮象でもありません。カント以前の哲学者は、感覚から仮象が生じる、それゆえに、感覚からは独立した理性による認識が真理の獲得には不可欠だと考えていました。カントが異なるのは、仮象をもたらすのは感覚だけではなく、理性そのものによってもある種の仮象が生み出されると考えた点にあります。そして、彼の哲学(=認識論)は、そのような理性を批判(考察、吟味)することにありました。その結果、そのような仮象を取り除くことは容易ではないことが判明するのです。例えば、「自己」というものは仮象だとカントは考えます。とはいえ、もし自分がないとしたら、人は尋常な心理状態を保てず、正に我を忘れた人になってしまいます。そこで、カントはそのような仮象を超越論的仮象と呼んでいます。「物自体、現象、仮象」の組み合わせは現在は遺物と呼んで構わないと思いますが、その辺の話を以下にまとめてみましょう。

 

(1)物自体と現象

 カントは現象と物自体を厳格に区別し、私たちは現象しか知ることができない、と物自体についての不可知論を主張しました。(この主張は古典物理学にはフィットしないのですが、量子力学にはある程度フィットします。)でも、カントの「現象」に否定的な意味はありません。「現象を認識する」、「現象を知る」ことは、外からやってくる感覚的な入力データを、主観が情報処理し、構成するということですから、正しく処理できれば正しい結果が得られます。実際には、先ず仮説を立て、実験し、データを処理し、結論をだすということと違いはありません。これが、「現象が主観によって構成される」という意味です。私たちが現象と呼ぶものは、私たちとは独立に、私たちの外部に存在する物理的なものですが、カントの現象は私たちが主観的につくり出した現象で、私たちがいなければ存在しないものなのです。

 例えば、「すべての人間は死ぬ」という全称言明をどのように証明するか、考えてみましょう。まず、全称言明を仮定して、それに対する反証がないかぎり、暫定的に真理であるとみなす、というのが経験科学の通常のやり方です。つまり、「すべての人間は死ぬ」という言明は、「死なない人がいる」という反証の言明が示されるまでは、真とみなしてよい、というのです。誰かがいつか、そのような反証を見つけるかも知れません。それゆえ、「すべての人間は死ぬ」という全称言明は、反証が見つかるまでは暫定的に真とみなされ、仮説にとどまるのです。

 このような反証性を巧みに使ったのがポパーです。彼は、一般的な主観から話を始めるカントを批判して、このように経験的な験証、他者との対話と合意によって科学的認識が成り立っていることを強調しました。ポパーがここで言うような験証や対話は、今ここにある験証や対話であるよりもむしろ、いつか反証してくるかも知れない未来の験証や対話です。そのような験証や対話を前提しないと、科学知識、つまり自然法則(全称言明)が成り立たないのです。

 科学者は知覚には錯覚や誤りがあっても、知覚するほとんどのものを信用しようとします。でも、哲学者は知覚するものの中に一つでも信用できないものがあると、そのことを殊更に重要視し、その誤りを許すことができません。これが科学と哲学のかつての違いで、本当はそんなことはない筈です。かつての違いを詳しく述べれば、次のようになるでしょう。知覚は誤ることがあっても、科学的実在論を大抵の科学者は認めるのですが、哲学者は感覚の不確かさを理由に観念論的な立場の方に好意を示します。実在論の十分な証拠が感覚から得られなくても、実在論者は錯覚のような信用出来ないものを除く工夫を入念に行い、観察の方法を確立しようと努力します。さらに、より詳しく見る、拡大する、ストップしてみる、といった工夫を施して、感覚レベルで情報を正しく手に入れる努力を怠りません。それに対して、哲学者は感覚レベルの情報を信用できないものとあっさり諦め、それは脚色された情報に過ぎないと顧みないのです。潔いと言えば、確かにそうなのですが、「感じ知る」ことへのこだわりが見られないのです。経験に固執することが生きるということですが、その点では科学者の方が哲学者よりずっと自然な姿をもっているのです。

 例えば、性善説性悪説を考えてみましょう。人は性悪かそうでないか、などという極端な区別を普通はしません。善人か悪人かと二分できるなら簡単でいいのですが、人はどう見てももっとずっと複雑です。となると、性善説性悪説とは一体何なのでしょうか。主義、主張は何かを実行する際の態度、モード、視点であり、行動指針に過ぎません。性善説性悪説もそのような行動指針だと思えば、それで納得できるのですが、実在論や観念論も実は似たような区別に過ぎないのです。それなのに、実在論や観念論は行為のための実践的仮定ではなく、根本的な原理だと誤って想定してしまったのです。実在論や観念論は「感じ知る」という行為の指針に過ぎないのです。

 

(2)仮象

 カントが否定的なものと見ているのは、仮象です。仮象は現象と違って、感性的な直観(カント的な表現で、感じ知ること)に基づいていません。ただ、考えられただけのものです。考案されただけのもの(例えば、お化けやシャーロック・ホームズ)が、実際に「存在する」というためには、「感じ知られる」こと、つまり、感性的な直観が必要になります。

 通常、仮象は、理性によって取り除くことができます。古来、哲学は、感覚にもとづくドクサと、理性にもとづくエピステーメーを区別してきました。同様に、カントに先行する啓蒙主義者は、理性にもとづいて(感じ知ることが引き起こす)様々な仮象を批判しました。しかし、カントは、感性だけでなく、理性もまた仮象をもたらすと考えたのです。

 感覚によってもたらされる仮象(例えば、錯視)は、理性によって訂正されます。でも、理性によってもたらされる仮象は、理性によっては是正されません。そもそも、それは理性が必要とするものであるからです。カントは、理性がどうしても避けることができない仮象を、「超越論的仮象」と呼びました。自由、神、魂の不死などがその例です。

 例えば、超越論的仮象としての自己を考えてみましょう。デカルトの「sum:I am、我在り」は、「自己がある」ということを意味します。それに対して、ヒュームは、自己などは仮象である、と言います。前日の自分と今の自分とは違います。自己は同一でないどころか、自己そのものは仮象に過ぎません。でも、自己や自己同一性という幻想がなくなると、統合失調症が待ち構えています。自己は仮象であっても、生きていくために不可欠なのです。さらに、同一の自己がないと、自らの行為に対して責任をとることができません。それゆえ、同一の自己は仮象であっても、否定できない仮象、つまり、超越論的仮象なのです。

 この例が意味することは重要です。自己や自己同一性が仮象であり、本当に「感じ知る」ことができないことに私たちは賛成するでしょうか。現在の精神医学にとって「自己は仮象である」という言明が有意味でしょうか。「自己が健全であり、その自己が壊れると治療する必要がある」と受け取られている自己は仮象以上のものだと思われています。