よい子、つよい子、できる子

  このような謂い回しが、確か私の通っていた小学校の校訓(目標やスローガン)でした。これが運動場などに掲げられていて、児童は直ぐに眺めることができたのです。どのような経緯でこの謂い回しが学校の校訓になったのか知りませんが、今の父兄なら差別化だとしてクレームをつけるに違いありません。私は父兄とはちょっと違った理由でこの謂い回しが嫌いなのです。校訓の主張は、小学校でしっかり学んで、よい子、つよい子、できる子になろうという意味で、いわば「学習する」ことを通じて能力を身につけようというものなのでしょう。これは文句のつけようがないように見えます。でも、私にはこの謂い回しは正に優生学の目標そのものだと思え、ナチスの優性政策やユダヤ人政策を思い出してしまうから嫌いなのです。当時の優生学の目標は、生まれつきよい子、つよい子、できる子をつくろうというものでした。(学習によってつくられる)獲得的なよい子、強い子、できる子と(遺伝的に決まっている)生得的なよい子、つよい子、できる子の違いがそこにあるのですが、この違いは実に意味深です。そこで、過去の遺物と言われている優生学やいわゆる遺伝子治療について暫し考えてみましょう。

 生物は多様で、同じ種や個体群でも異なる個体からなっています。つまり、個体は変異をもっています。この変異は人の場合は個性、一般的には多様性と呼ばれるものです。そして、変異の存在こそが集団の生存能力の指標になっています。この指標は変異が大きいほど多様な環境に適応できることを表しています。ですから、自然選択が働き、生き残るためには変異が存在し、その値(適応度)が大きいことが不可欠なのです。

 このダーウィン自然選択説に対して、ルイセンコのように独特の説を展開し、政治に関わった事例とは別に、もう一つの政治絡みの事例がフェアシェアーやメンゲレの優生学ナチスの断種やユダヤ人政策です。断酒なら大したことはないのですが、断種となると一大事と思う人が多いのではないでしょうか。20世紀初頭の優生学は欧米中心に先端科学の一つでした。よい形質を守り、増やし、悪い形質を除去し、減らすという考えは、自然で、悪意はないように見えます。特に、教育によってそれを実現することは教育学の基本的な目標と言っても言い過ぎではありません。でも、それを教育のように獲得的、経験的にではなく、遺伝的、生得的に実行しようとすると、なぜだか大問題になります。

 幸か不幸か、20世紀後半までは人の手を使って遺伝レベルで形質の変更や修正を行うことはできませんでした。生物を創造したのが神だという宗教では、被造物に過ぎない人が生物に手を加えることは神の領域に踏み込むことであるということから原則禁止されてきました(ですから、原始仏教では禁止事項ではありません)。でも、ここで20世紀以降の生物学の爆発的な発展は、遺伝を中心とする分子レベルでの生物学だったことを思い出すべきなのです。遺伝現象も分子レベルで解明され、その結果、生命を生み出し、操作することが技術的にできるようになりつつあることがわかります。生命の誕生と死に関わり、それらをコントロールすることから始まった私たちの介入は次第にその範囲を広げ、生命現象全般に渡ろうとしています。そして、それと同時に、人が介在し、関与すること、遺伝子を操作し、直接に関わることは、よいことか悪いことかといったことが随分と議論されてきました。

 生物のどのような形質が生存に有利か不利かは環境に依存し、定数として恒常的に決まっている訳ではありません。つまり、形質の適応度は環境に対して相対的な値なのです。生物がもつ形質の多様性は維持されるべきだ、生物多様性は守るべきだと言われています。一度失われた形質は二度と人為的に復元できないから、というのがその理由です。

 人の浅はかな知恵による介入によって多様性が失われ、その結果として不幸がもたらされる、だから、人は手を下すべきではない、ということを大抵の人は疑問をもたずに受け入れる筈です。一方、健康は望むべきことで、強い個体、適応力のある個体は健康な個体だということになっています。健康保持のためには遺伝学の知識を積極的に使うべきだということにも疑問は待たない筈です。

 

 さて、ここからが私の問題主張です。その主張は「人が手を下そうと、そうでなかろうと、生命進化の事態が変わるかどうかは誰にもわからない」というものです。ですから、神の領域に入り、神の如くに振る舞うことは誤りだという常識的な主張は真ではないことになります。私たちが介入することによって事態が変わるかどうか誰にもわからないのです。それは適応度が状況や環境に依存し、正確な予測が一般的にできないからです。人が介入することによる変化は実は誰にもわからないとなると、残念ながら、これまでよりももっと見通しが悪くなります。

 こうして、遺伝子を直接操作し、子供をつくり、病気を根絶することは、慎重な立場、臆病な立場、勇敢な立場、無謀な立場のどれかと問われれば、そのいずれでもない可能性があるのだということになります。科学的に遺伝操作を行うべきでないことがあたかも真理であるかのように繰り返し唱えられてきましたが、それは正しくないことになります。

 人は深淵な知恵などもてないので、遺伝子の操作に介入しても、神の眼から見れば子供の遊びに過ぎないのです。科学が世界を変えてしまう例は沢山ありますが、人が遺伝子を操作することが本当に世界を変えるのかどうかは実は誰にもわからないのです。人はそれがわかるほどスマートではないのだというのが私の主張です。ですから、生物の遺伝に手を加えるべきではないというのが月並みで平凡な答えだとすれば、もっと無制限に手を加えても構わないのだという変わった非凡な答えも可能なのではないでしょうか。「触らぬ神に祟りなし」ということ以上の理由が生物多様性の保持にあるかと問われると、私にはよくわからないのです。人が介入しなくても自然によって絶滅させられることが当たり前であるので、自由放任を徹底すれば、私のような結論にならざるを得ないのです。生物多様性という概念は突き詰めれば人為的な概念なのです。その多様性を壊すことが計画的にできるのかと問われるなら、その解答はわからないということになります。

 この結論が正しいのだとすれば、私たちは神にはなれない、あるいは神でさえ生き物の将来は見通せない、のいずれかが正しいことになるのではないでしょうか。