感性と理性は区別できるのか

 「計算する」ことが私たちの脳の働きの基本、エッセンスだと既に述べました。では、感性や理性、あるいは真善美の判断、思考と価値判断、意志と欲求といった区別は一体どこから出てくるのでしょうか。もっと大袈裟に問題を拡大すれば、信念と欲求という心の機能の区別も、プラグマティックな方便に過ぎず、実は「計算する」という操作の便宜的な分類に過ぎないのではないか、このような疑問が沸々と湧き上がってきます。

 感性、悟性、理性という区別ならカントが思い出されるのですが、この区別の実証的な証拠などどこにもありません。でも、実に巧みなレトリックによって区別があたかも事実であるかのように論じられると、その説得力につい頷いてしまうのです。でも、実際のところ、それは説明と理解のための方便に過ぎません。これは言い過ぎだとしても、心の働きに最初から区別があるというのは、計算という脳の働きには原理的に区別がないことと両立しないのです。

 ここでは、感性と理性の区別について考えてみましょう。二つはギリシャ以来の伝統的な区別であり、今でも感性と理性は人間がもつ基本的な二つの性質だと受け取られています。頭がいいのは理性的な能力が高く、芸術に向いているのは感性的な能力が高いということになっています。感性も理性も死語ではありません。

 このところ「感じ知る」という述語をしばしば使ってきた私には理性と感性がきっぱりと違った能力だと都合が悪いのです。脳と心という謂い回しも都合がよくありません。人間の身体の部位(脳)が二つの異なる単語で呼ばれるというのは不都合というだけでなく、気分がよくなく、落ち着かないのです。さらに、私より極端な物理主義者にとっては、脳と心は異なると(デカルトのように)表明されると、事態は混乱の極みで、白黒の決着がつかないことになるのです。

 話を限定して、理性と感性に集中しましょう。風景の美、戦争の残酷さなど、どれも感性だけで美や残酷さが判定できる訳ではありません。そこにはいつも理性的な判断が働いている。いつも感性と理性が一緒に働いていることになると、二つを区別して考える理由はどこにあるのかわからなくなってきます。いつも共に働きながら、二つは別々の独立したものであることを示さなければ、理性と感性は同じものの側面に過ぎないものになってしまいます。外部の情報が取り入れられるのは私たちがセンサーをもっているからですが、大雑把にはそのセンサーが伝統的に感性と呼ばれてきたものに対応しています。そして、センサーが情報を処理するのは計算することであり、その計算過程は算術と何ら変わりません。

 感性も理性も脳での処理は計算することです。むろん、「計算する」という述語は物理的な操作を表現しているものではありません。それはある意味でとても抽象的な述語です。それは物理的な過程そのものではありません。でも、心理的な過程かと言われれば、そうでもなく、意識されません。

 では、「計算する」とはどのような過程なのでしょうか。抽象的な過程ですが、小学生でもわかる算術の計算であり、文字通り個々の四則演算なのです。算盤や電卓をイメージしてもよいでしょう。計算そのものは物理的な過程ではなく、物理的な過程を使って実現できるのが計算です。算術のシステムはフレーゲゲーデル、そしてチューリングによって研究され、今では計算理論として確立されています。

 何を計算するかに応じて感性や理性という区別がなされるのであって、計算そのものが感性や理性に応じて異なるというのではないことがわかっています。計算は認知という観点からは情報の処理の仕方なのですが、情報が感覚器官を通じて入力されるので、その部分が感性、入力された情報の処理が理性と便宜的に区別されるというのが一般的な理解です。センサーと演算処理という区別もよく使われます。では、テレビカメラが感性をもち、自動ブレーキ装置が理性をもつと言うでしょうか。二つの装置が連動することで安全運転が実現する訳ですが、その際の感性と理性の総合という表現はとてもわかりやすいのですが、比喩に過ぎません。

 結論を急ぐ必要はありませんが、最初から感性と理性は違うものと頑なになるのもよくありません。暇なときに考えてみてほしいものです。