認識論、心の哲学は今の加計問題や稲田問題に何も貢献もできない…

 特別防衛監察の報告が出て、それを直接見ることができます。その中の注の一部を以下に挙げてみます。

 

「平成29年2月15日の事務次官室での打合せに先立つ2月13日に、統幕総括官及び陸幕副長が、防衛大臣に対し、陸自における日報の取扱いについて説明したことがあったが、その際のやり取りの中で、陸自における日報データの存在について何らかの発言があった可能性は否定できないものの、陸自における日報データの存在を示す書面を用いた報告がなされた事実や、非公表の了承を求める報告がなされた事実はなかった。また、防衛大臣により公表の是非に関する何らかの方針の決定や了承がなされた事実もなかった。

 さらに 平成29年2月15日の事務次官室での打合せ後に事務次官、陸幕長、大臣官房長、統幕総括官が、防衛大臣に対し、陸自における日報の情報公開業務の流れ等について説明した際に、陸自における日報データの存在について何らかの発言があった可能性は否定できないものの、陸自における日報データの存在を示す書面を用いた報告がなされた事実や、非公表の了承を求める報告がなされた事実はなかった。また、防衛大臣により公表の是非に関する何らかの方針の決定や了承がなされた事実もなかった。」

 

 この特別監察のとても堅苦しい報告文をもとに様々なことが推測できます。13日と15日は違う日で、違う活動がなされていた筈なのに報告文の肝心な部分は同じ文章からなり、違う日の違う活動を述べるのに同じ文章を使うとは何とも不思議。報告文からは依怙ひいきや偏向が明白で、「可能性」と「事実」という殊更の対比表現はその証拠の一つ。また、大臣に報告した事実がなかったのではなく、そのような事実が確認できなかったのが正しい表現。「事実がなかった」と平然と断定することは実証的でなく、その修辞と論理に驚くしかありません。「何らかの発言があった可能性は否定できない」もひどい日本語で、「何らかの発言があったことは否定できない」が正しいのです。そうでないと、「何らかの発言があったことは不可能ではない」ということになり、それは自明のことを述べたに過ぎません。こんな報告書をつくる苦労は徒労でしかありません。

 報告書に文句を言うより、「事実、可能性、認識」といった単語が飛び交う事態に哲学、特に認識や心を扱う哲学が何か貢献できないのでしょうか。何も言えないとすれば、心の哲学など弁護士の議論と大同小異ということでしかありません。

 心が存在し、心の中は言明の集まりで表現できるというあいまいな了解を私たちは共有していて、「人には心があり、それは私的な領域である」と認め合っています。秘め事の貯蔵庫としての心を認めることには代償が伴います。その代償は大きく、人を騙す、嘘をつく、隠蔽するために心を悪用することができ、それに対する適切な対策がないのです。言葉を自由に操ることができる代償は、言葉を使って嘘をつき、相手を騙すことができることですが、その言葉を操るのが心なのです。心をもつことを認めることは心が悪さをすることも併せて認めることなのです。権利に義務が付き纏うことによく似ています。

 事実とそれについての認識は異なります。事実と可能性の違いは「事実なら可能だが、可能でも事実でないことがある」といった程度のものに過ぎませんが、事実とその事実についての認識(つまり、その事実を知っていること)とはまるで別物です。二つが別物である理由は上述の心の存在にあります。事実は誰かの心とは独立した外部世界の出来事ですが、その事実を知ることは誰かが心を働かせて、いつかどこかで知ることであり、それは心の中で起こる出来事だというデカルト以来の伝統が未だにしぶとく生き残っているのです。

 他人の心が見えないだけでなく、自分の心も見えません。自分の心の内を一部知ることができても、他人の心はそのほとんどを知ることができません。つまり、心は闇に覆われています。私たちは心の存在を認め、観察や実験を認め、考えることを認めますが、それらの結果、厄介なお荷物も引き受けることになりました。それが心の壁です。心の中を知るにはその壁を乗り越えなければなりません。観察や実験には実証の壁が、考えることには構想の壁がそれぞれ立ちはだかり、これら三つの壁を乗り越えることができないことを悪用して、社会に多くの悪が生み出されることになります。

 これら三つの壁は強力なのですが、救いは壁の内と外とで同じ言葉が使われ、信念も事実も同じ言葉で表現され、それらを組み合わせた文章が世界や心の記述として認められていることです。事実を述べる文と信念を述べる文が同じ言語であることは実に奇妙で、違っているのが当たり前のはずなのですが、実際は同じ言葉を使っています。そのせいで、心の世界と物理の世界は違うにもかかわらず、私たちは自由に二つの世界を行ったり来たりできるのです。

 

(1)「文書があるという報告を受けた認識はありません」(稲田さんの表現)

(2)「文書があるという報告を受けた事実はありません」(報告書の表現と同義のもの)

 

(1)はそもそも何を意味しているのか、また、(1)と(2)は違うのでしょうか。「思う、考える、知る、信じる、認識する」といった述語は論理的にも文法的にも否定形で使って構わないのですが、(1)がどのような心的状態か想像すると、途端によくわからなくなります。「Aは強いと思わない」という否定形の心的状態が何であるかよくわからないため(つまり、「「Aは強いと思わない」ことを私が思う」とはどのようなことかわからないため)、私たちは「Aが強くないと思う」という肯定形の心的状態を想像してしまいます。さらに、変形を重ね、「Aは弱い」と「思う」の二つに分け、「Aは弱い」を思えば、それが「Aは強いとは思わない」ことの解釈だと考えるのではないでしょうか。これが正しいならば、(1)と「文書があるという報告を受けなかった」と思う(認識する)ことが同じになります。それでも稲田さんの表現と(2)の報告書の表現とは同じにはなりません。

 人は過去のことを思い出したり、歴史的あるいは時間的な系列を確認したりする時、個別の事実の系列が続きます。それは個別的な出来事で、否定形ではなく肯定形で表現されます。否定形の表現はそれら出来事についてまとめたり、認識的な述語をつけたりすることによってつくられます。例えば、述語「記憶にない」が使われる文は過去の出来事ではなく、それについての現在の心的状態を述べたものです。