認識論や心の哲学の将来の貢献

 将棋ブームの立役者となれば、藤井君だけでなく、AI将棋のソフトも挙げなければならない。既にプロより強いソフトが幾つも開発されている。自動車の自動運転AIも存在し、特定分野のAIの数と種類は今世紀に入り格段に増え続けている。そして、より普遍的なAIが開発され、その将来となれば人間自身のソフト、つまり鉄腕アトムのような人間型ロボットということになるだろう。チューリング・テストに合格するAI、万能チューリングマシーンの夢が次第に実現に近づいている。そんな夢の一つが学習ロボット。先生の代わりをするロボットが子供たちを教育するシステムができるなら、人間社会は情報や知識の伝達だけでなく、科学の次の段階へと入っていくことになろう。当然、そのような学習システムが働くためには子供が何をどのようにどの程度理解したかを判定できていなければならない。そのためには子供と対話でき、子供が何をどのように理解したかを的確に知ることができるシステムが必要となる。まさに子供の心の内を知っていなければならない。このような認知工学が可能であれば、このシステムの適用範囲は限りなく広がるだろう。

 この学習システムを人間の会話や質疑応答の評価判定に使うことは、誰でもすぐに想像できる。加計問題や稲田問題への応用も然りである。情報を的確に知ったかどうかを判定できるシステムがあれば、国会での質疑応答についての評価をこのシステムにさせ、それぞれの質疑応答に点数をつけることは簡単で、公平な評点として利用できるだろう。さらに、このシステムは資格試験などの評価判定に使うこともでき、しかも近い将来に実現できる可能性が高い。大袈裟に表現すれば、人間の心的能力を生み出し、判定し、高めるAIシステムということになるだろう。

 こんなシステムをつくり、人の心の内を探ろうというのは狂気の科学者が思いつくことであり、科学哲学者がやるくらいで、普通の哲学者はとんでもないことだと激しく抗議するというのが通り相場だろう。では、国会の質疑を根底から変える他のアイデアがあるのかといえば、そんなアイデアはどこにもない。人間のあるべき姿を説く哲学は話し始めは見事なのだ、次第に議論は空を舞うようになっていき、その結論となると貧弱この上なくなってしまう。近代以降の人間観の根底にある心や精神に対する考えや態度は、心の内側への介入や操作を許すほど寛容ではないどころか、それらを防御しようとするのである。

 さて、肝心なことはこのこと。近い将来、この教育ロボットができ、人間との質疑応答への評価に利用され、それが公開されるということになると、当然ながら猛反対にあう筈である。現在の私たちには個人のプライバシーや権利が侵害されると予想されるからである。これが前回述べた「心の壁」である。学習ロボットが勝手に人間の心の中を覗くとなれば、それに対して非難が激しく浴びせられることは必定である。それこそ悪魔の仕業とされ、猛反対に会うことになる。現在の私たちには明らかに人権侵害である。もしこのシステムの採用を許すなら、それは過去に人の心の内を知ろうとして考え出された拷問と何ら変わらないと糾弾されるのではないか。裁判での宣誓証言なら許されるのだが、それが実質的に強制されるとなると誰もが異議を唱えることになる。

 このような激しい反対が起こることが確かであることは何を意味しているのだろうか。そこにこそ私たちは人間のもつ両価的な性(さが)を見ることになる。私たち人間は、

 

知りたい人間

隠したい人間

 

沈黙する人間

暴露する人間

 

の二つの側面を併せ持っている。同じ人間でも状況や文脈に応じて二種類の人間の間を行ったり来たりする。その行ったり来たりの背後にある人間らしさは次の二つの言明に集約されるのではないか。

 

人は他人のことを知りたい。

人は自分のことを隠したい。

 

これが心の壁に対する基本的な二つの異なる動機である。これらは誰もが普通にもっている欲求であり、自己愛の基本表現と言ってもいい。出来上がってしまった心の壁の前で中を知りたい気持ちと壁によって中を隠したい気持ちは相反するものだが、両方とも自然な欲求として誰もがもっているものである。だから、例えば、プライバシー保護の権利と情報公開の権利は相反する事柄でありながら、共に訴え続けられてきた。それらが衝突する場面は少なからず存在し、実際しばしば衝突している。

 この状況が変わらない限り、教育ロボット計画は簡単には公認されず、「記憶にない」を繰り返す証言への適切な対応もほぼ不可能となるのである。それだけでなく、鉄腕アトムをつくる夢も人間の尊厳を傷つけることになるゆえに禁止ということになる。鉄腕アトムをつくって心の壁の一部に穴をあけることを許すかどうか、許せば「記憶にない」証言にも対処できる。いずれを選択するかは大変厄介な難問である。