信念と知識:科学の場合

 (信念、疑念に触発されて知識が生まれる)

 欲求や感情は、それについて私たちが欲求や感情をもつ意識の内容が事実を表現しているか否か、適切な行為であるか否かとは関係がない。欲求や感情の内容、つまり欲求や感情の志向的対象は現実離れした事柄や行為で一向に構わない。何かについての欲求、感情と言われるときの何かは世界で起こる出来事である必要はない。だから、欲求や感情は時空を超えて、悔やみ、悩み、望むことが自由にできるのである。

 だが、欲求や感情とは違って、信念と知識は外部世界の事実との関係が重要になってくる。信念の志向的対象が事実か否か不明でも、それは明らかに事実擬きの内容をもっている。信念の世界は高階の事象を積極的に許し、その結果、多くの文学作品が生まれ、そこに描かれる人間心理(特に、欲求や感情)は人々の生活、人生を形成してきた。人間心理の奥深さは高階の言語によって描かれ、それが人間の内面を表象してきたのである。知識とは異なり、信念は事実にも欲求や感情にも配慮して、第1階から高階に渡る事柄に対して適用される、幅広い認識的な述語になっている。

 この信念の一類型、あるいは変形が「疑う」という懐疑である。信念と懐疑は正反対の心的状態に見えるが、認識的な述語としてはよく似た振舞いをする。疑うものは事実であってもそうでなくても構わないという点で信じることと似ているが、懐疑は独特の地位を占めている。疑いの心理は実に微妙で、真理を追求する際の疑いから、相手の心を疑うことまで、疑いの内容は大変違っている。それを大変うまく使ったのがデカルトだった。

 哲学で議論されてきた疑いは真理追求のための疑いであり、それを最初に、しかも劇的に示したのがデカルトの『方法序説』。デカルトは、「私がこのように「全ては偽である」と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」と考え、これだけは真であるといえる絶対確実なことを発見する。それが「Je pense, donc je suis」。この原理は方法的懐疑を経て「考える」たびに成立する。さらに、「我思う、故に我あり」という命題が明晰かつ判明に知られるものであることから、その条件を真理を判定する一般規則として立てて、「自己の精神に明晰かつ判明に認知されるところのものは真である」という規則を設定する。そして、この規則を応用した試論が1637年の著作だった。その正確なタイトルは『みずからの理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を探究するための方法についての序説およびこの方法の試論(屈折光学・気象学・幾何学)』(Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la verité dans les sciences(La Dioptrique, Les Météores, La Géométrie)で、個別科学がこの方法に基づいて展開されている。

 残念ながら、現在の自然科学はデカルト的な明晰判明なコギトからではなく、複数の科学者の信念(懐疑から)スタートする。その違いを大まかに例文を使って示せば次のようになるのではないか。

 

(1)I think, therefore I am.

(2)We think that P, therefore P.

(3)Some of us think that P, therefore all of us think that P.

((1)がデカルト、(2)が科学的実在論、(3)が科学的経験論の方法論をそれぞれ表明している。三つの主張の「therefore」の意味もそれぞれ異なる。)

 

 仮説という信念とその信念への懐疑が問いとなって、それを、解読、解消する実験や観察が工夫される。それが「仮説の験証としての実験」であり、その結果が知識として採用されることになる。これは正に科学の認識論、知識を獲得する方法である。高階の「信念や懐疑」の言明を第1階の言明に還元し、最後は実験や観察を通じて知識に至るということになる。

 真理は単純であり、単純という意味は事実に密着し、それだけを述べることに還元、集約されることである。

 

*現在の私たちの多くが信じるのは(1)や(2)ではなく、(3)であろう。ここで注意したいのは、(1)、(2)、(3)のいずれかを選び、そのいずれかが真だと信じることが私たちにできることであって、選ばれる(3)は仮説としての信念である。)