宗教と科学:信じる、疑う

  「宗教教義を真だと信じること」と「科学理論を真だと信じること」とはまるで違うものだと教えられて、疑問を持つどころかその通りだと思う人がほとんどなのだが、それに疑問を抱いた人たちがいました。より簡単に、「神を信じる」ことと「自然法則を信じる」ことと置き換えても構いません。その人たちは、あるまとまった信念、あるいはその信念を表現した言明の束を真であると信じることでは宗教教義も科学理論も違いはないと考えました。新しくつくられた科学理論について、その内容を経験的に確かめ、単なる信念を確実な知識に変えるのがその科学理論を真だと信じることだと考えました。一方、宗教は験証できない信念を真として信じることだと考え、それは験証によってではなく、神の命令によって、あるいは自ら悟ることによって真だと受け入れることだと考えられました。すると、実験や観察の結果という証拠によってではなく、それとは別の証拠、あるいは証拠なしに直接の啓示によって真として信じることになります。信じるきっかけや理由は違っても、私たちは宗教も科学も真であると信じる(あるいは偽であると信じない)点では変わりないことになります。彼らはこのように考えたのです。

 このように同じだと考えることにごく自然に疑念が生まれてきます。「信じる」という述語は科学と宗教、さらには日常生活ではその意味が異なるのでしょうか。「理論を信じる、神を信じる、隣人を信じる」に登場する「信じる」はみな異なる意味だというのでしょうか。異なるとすれば、それは根本的に異なっていて、共通の部分はないのでしょうか。もし共通の意味がどこにもないのだとすれば、言葉のもつ基本的な原則、つまり同じ謂い回しは同じ意味という原則を自ら破棄することになります。

 信じることには過程があり、それが(認識の)風景になっています。「信じ、行為し、変わる」ことすべてが「信じる」ことの意味を構成していて、行為とその結果に至るまでの過程=風景が「信じる」ことの意味なのです。「信じる、信じない、疑う、疑わない」といったそれぞれの述語とその否定の使用について自由放任主義をとるのが科学ですが、宗教はこれら認識的述語について独特の立場を取ります。これは宗教認識論とも呼べる領域で、高階の認識的な述語は独特の文法をもつことになります。

 

 「Pを信じることを疑う」: 科学では自由に疑うことができる。

 「Pを信じることを疑う」: 宗教では疑うことが禁止されている。

 

*上の言明に登場するPは第1階の言明、「Pを信じる」は第2階、「Pを信じることを疑う」は第3階の言明です。

 

 「当為」ということが昔はよく議論されました。倫理や規則に従うことは助動詞(must)や形容詞(necessary)によって表現され、「事実」とは異なることが強調されました。どのように異なるかがうまく説明できなかったのですが、可能世界意味論によれば、様相(modality)概念によって表現されるのは「ある世界で成り立つ事実」ではなく、「すべての世界で成り立つ事実」になります。しかし、このモデルを使った様相概念によっても倫理と宗教の言明の違いを明らかにすることはできていません。そこで、第2階、第3階の述語を考え、それらの関係を考えることによって、科学と宗教の言明の違いを上述のように捉えたのです。

 科学は疑うことと信じることの間の平等性を守ります。仮説を信じることと疑うことの民主主義とは、いずれに対しても平等に配慮するということです。でも、信仰は信じることを強要し、それを疑うことを禁止します。一度信じたならば、「信じることを疑う」ことを許さないのです。つまり、高階の認識的述語に関して厳しい制約を設けることが信仰の特徴となっているのです。

 新説、異説は時には歓迎され、新しい知識を獲得するきっかけとして役立ちます。異なる主張そのものが否定されるのではなく、その異なる主張が誤っているゆえに否定されるのが科学ですが、宗教における新説、異説は教派にとって異端であり、それだけで否定されます。宗教は最初から新しい知識を獲得することを否定するのです。自らの信念以外を認めないことによって、その教団の結束を守るのです。

 『イソップ寓話』に「オオカミ少年」という話があります。ヒツジ飼いの少年が、退屈しのぎに「オオカミが出た」と嘘をつき、騙された大人は武器を持って出てくるが、徒労に終わります。少年が繰り返し同じ嘘をついたので、本当にオオカミが現れた時には誰も助けに来ませんでした。その結果、村のヒツジは全てオオカミに食べられてしまったという話です。嘘をつく少年に対して、それを信じることを疑うことによって悲劇となってしまったのです。疑わなければ、ヒツジはオオカミに食べられることはなかったのです。

 私たちはこのような寓話を含め、様々な経験をもとに、「信じる、疑う」の意味を分脈に応じて使い分け、その結果を行動に結びつけてきました。その中の極端な二つの形態が科学と宗教で、自由放任とその完全否定という対立になっています。日常生活ではこの二つの対立の間に「信じる、疑う」があり、それぞれの事態に応じて右往左往することになっています。