懐疑の深化、転化;最小の懐疑

 ヒュームは、ロックが始めた経験論的なアプローチをさらに推進することによって、そこからロックとは違う結論を引き出しました。彼は、形而上学者たちがこぞって前提にしてきた物理世界の「実体」が虚構に過ぎないことを改めて証明し、さらに、人間の心的活動を支えているもう一つの実体、つまり「自我(自己)」の存在まで否定したのです。

 先輩ロックは実体の概念そのものを否定するほどラディカルではありませんでした。ところが、ヒュームは実体を次のように考えたのです。私たちが対象を認識する際、さまざまな現象の背後に想定される基体は、人間が便宜的、恣意的に与えた名称に過ぎなく、それ自体が客観的に存在するかどうかは、私たちには知る由もないのだと。

 バークリーはロックより一歩進んで、認識の対象が客観的な存在であることを否定し、すべては人間の心の中で起きている現象に過ぎないと考えました。そして、存在するのは人間の心のみであるとバークリーは主張したのです。つまり、バークリーにとって、心こそが実体だったのです。でも、ヒュームは人間の心からも実体性を剥ぎ取ってしまいます。というより、彼は心の存在を否定したのです。この点で、彼の主張はデカルト哲学への強烈なアンチテーゼになっています(詳しくは私の昨日の論評を参照して下さい)。

 ヒュームは人間の経験が知覚から始まると考えました。彼はその知覚を「印象」と「観念」とに二分しました。これはヒュームの有名な分類なのですが、今の私たちには気の利いた便宜的な分類でしかありません。しかし、実に気が利いた分類だったのは確かです。印象は私たちの感覚として現れるもので、生々しい迫力をもった知覚であり、すべての経験の出発点です(絵画の印象主義を思い浮かべるといいでしょう)。観念は印象の再現あるいは模写として現れるものです。したがって、そこには人間の心が働いています。このうち記憶は印象の再生として現われ、印象に近いのですが、新鮮さに欠けています。観念が複合したもの、つまり複合観念は、印象に直接似ている必要はありませんが、印象と全く関係を持たない複合観念はありません。例えば、私たちがペガサスやドラゴンを想像する場合、それに対応するような直接的な印象をもてないにもかかわらず、想像上のその動物を構成する要素はすべて、既知の印象あるいはその再現としての記憶からつくられています(創作のからくりはここにあるようです)。このような話は人心を惑わすほどに面白いのですが、印象と観念がまともな概念かと問い直すと、誰も自信ある答えはできません。でも、ヒュームは、どんな精神作用も、最後は印象とその再生としての観念に帰着すると考えていたのです。

 しかも、ヒュームはどんな複雑な観念でも、それは構成要素としての個々の観念に分解されると考えました。また、それらの観念は必ずそれに関連する印象を背後にもっています。したがって、どんなに抽象的な観念も個体的な要素を含んでいることになります。例えば、「人間」という観念の場合、私たちは人間なるものを表象するわけではなく、自分がこれまでに見てきた多くの個々の人を束にして表象しているに過ぎません。個別的でない普遍的な人間という抽象観念は、ヒュームにとっては存在せず、存在するのは個別的な人間だけなのです。

 ロックは印象を、直接には知ることはできないが、客観的に存在する外部の物質が人間の心に働きかける結果として生じると考えました。バークリーは、印象(感覚)や観念とは人間の心の中にのみ生じるもので、それに対応する外部の客観的実在を想定するのはナンセンスだと主張しました。ヒュームはこのバークリーの考えを更に徹底させました。印象とは私たちが心の中に感じる経験であり、私たちはその経験をそのまま受け入れ、それが何かを知ればよいのであって、それ以上のことをする必要はないと考えたのです。私たちは感覚に現れる対象のさまざまな様相を経験して、感覚の背後に実体なるものを考えがちですが、そのようなものは存在しません。既述のように、人間について、私たちが知覚できるのは個々の人間であって、普遍的な存在としての人間などは知覚できません。また、私たちが自分の経験の分析を通じて、経験の主体としての「自我」を想定するとき、それは何を指しているのでしょうか。デカルトは「私が考えている」ということから、その主体としての自我という存在を導き出したのですが、ヒュームによればそれは誤った結論で、自我など存在せず、心を知覚の束に還元してしまいます。人間の心とは様々なものを知覚するプロセスであり、その背後に自我を想定する必要はないと考えたのです。

(最小の懐疑)

 デカルトやヒュームにとって、懐疑は重要な役割を果たした概念です。でも、二人の懐疑は自我の存在、自我の否定というまるで異なる結果をもたらしました。では、二人の懐疑は同じ「懐疑」ではなかったのでしょうか。懐疑が曖昧なものであることは既に何度も述べましたが、それを再確認しておきましょう。

 「人の言うことをそのまま信じないで、疑ってみよう。疑うことから真実が見えてくる。」などと教師に言われて、「本当にそうかな」と疑った経験はどんな人にもある筈です。「疑う」も「信じる」も、そして「知る」も、認識的な述語は何を意味しているのか曖昧模糊としていて、扱いが厄介極まりないものです。「何かを疑う(信じる、知る)」の「何か」の典型は表象だということになっていますが、表象がどのようなものかとなると言葉の定義だけでは埒があきません。テレビモニターの画面と私の心的な表象が同じかどうかなど誰も知りもしないにもかかわらず、同じものだと思って生活し、これといった支障は出ていません。

 「表象内容を疑う、信じる、知る」ということが「疑う、信じる、知る」ことの志向的対象だとして、では、「表象内容を疑う、信じる、知る」とはどのようなことか。最初の「表象内容を疑う」だけを以下に考えてみよう。

 「自分が見ているものを疑う」とき、何を疑っているのか。見ているもの一つ一つが違うものなのか、見ているものの一部が違うものなのか、見ているものが存在しないのか、それとも、見ているものがその通りでないのか、これら多くの懐疑の中でどれが「疑う」の意味なのでしょうか。こんな風に問うと、認識的な述語の罠にまんまとはまってしまいます。ですから、「疑う」の最小限の役割を見定めることにしよう。「疑う」に期待する最小限の役割とは何でしょうか。「Aを疑う」とはAが偽かも知れないということです。つまり、Aの否定形が真かも知れないということです。それ以上のことを懐疑に負わせないことにするのが賢明というものです。私たちは「疑う」だけでなく、それに加えて、疑った事柄を否定したり、疑った存在を否定したりします。このような疑いの範囲を超えたことを行ったのが上述のヒュームだったのです。自我の否定は明らかに最小の懐疑を超えた懐疑だったのです。

 最小の懐疑を使うのが科学での懐疑です。科学は懐疑に対してその最小限のものしか期待せず、懐疑から真理を見出すというより、懐疑をきっかけにして探求をスタートさせるのです。「何かを疑う」とは、それゆえ、「何か」が真ではないと仮定して探求を始めるということなのです。懐疑に対して望外の要求をしてはなりません。デカルトもヒュームも懐疑を買いかぶり過ぎ、その役割を過大評価したのではないでしょうか。仮説演繹法では最初の仮説をどのように置くかが極めて重要です。仮説を設定するきっかけは以前の仮説への懐疑です。それがきっかけとしての最小の懐疑の役割なのです。