誰もふれない表象の本性についてのスケッチ

  実体、基体、実在、物自体、さらには第一性質は、現象、表象、そして第二性質とは根本的に異なると考えられてきました。それは古き伝統であり、習慣となっていたためか、大抵の人の常識としてしぶとく生き残ってきました。それを見ている私たちには左右されない客観的なものと見ることが生み出す主観的なものとは根本的に違うという誤った二元論的な考えが正しいものだと盲信されてきたのです。

 私たちはテレビモニターの画像や写真を見ながら、その素晴らしさや悲惨さに心を動かされる一方、冷静にそれらは画像に過ぎないことも十分に承知しています。映画や3D画像がますます進歩し、裸眼による表象と区別がつかなくなっても、白黒映画から受ける感動がそれらに格段に劣っているというようなことはないように思われます。古い想い出やぼんやりした推測からでも私たちは印象的なシーンや結末を想像し、それに心底没頭することができるのです。

 それと同じように、私たちは自分が何かを知覚する時、それが実物そのものだとは思いません。それどころか、私たちは通常自分の知覚を意識しています。これは映画の画面が実物ではないと思うのと同じことです。見ている犬はそこにいるのですが、それはあくまで私の推論の結果であり、私に見えている犬だという意識も併せ持っているのです。見えている表象は実物とは違っていても、見ている対象は実物なのです。そして、それだけのことなのです。もし見えているものが実物なら、あなたの実物と私の実物が出てきて、実物がどんどん増えることになってしまいます。実物が一つなら私の知覚像とあなたの知覚像は実物ではなく、表象であり、一つの実物の異なる表象ということになりそうです。多分、それが多くの人の意見です。

 カテゴリーが存在についてのものであれ、認識についてのものであれ、それは理論のようなもので、客観的な対象を産み出す手段なのです。実在や物自体は表象だけではつくれません。月や太陽の表象とそれらについての知識は違っています。実在や物自体こそ私たちが生み出すものであり、表象は所与のものを含み、所与は文字通り外から与えらえたもので、生み出すものではありません。

 地図を例に考えてみましょう。街があり、道路があり、山や川があります。それらが実在するものであるのは、私が表象するからではなく、表象をきっかけにして知識を使って判断されたものであるからです。表象の風景から判断の地図に変わるのです。風景は表象ですが、地図は言葉で表現された実在です。地図のように、安定した習慣、知識による説明によって、表象したものが実在すると考えて構わない場合が増えていきます。知識や経験が表象を信頼できるもの、正確な情報を供給してくれるものに変えてくれるのです。

 表象を通じて実在を知る術を私たちは学習します。その結果、きわめて正確に表象が実在を捉えることになります。実在の正確な表現として表象を捉えることはそれでも多くの欠点をもっています。重さや長さの質的表現はできても、量的表現は表象によってはできません。さらに、見えないもの、聞こえないものについては表象できないのです。

 表象しながら、その中のものを意識し、考えをめぐらすことができます。表象は私たちが情報処理できる対象であり、ある程度は勝手に手を加えることができます。嫌なものは見ないといった簡単な工夫から、相手を騙すために表象を利用することまで、表象は様々に加工されて使い分けられているのです。

 表象はアナログ的、言語はディジタル的で、二つは違う情報処理の方法だと言われてきました。でも、表象内容を知るには言語が不可欠ですし、言明を知ろうとすれば、その言明の内容を表象することです。言語で表現されるものを表象する際の表象は、感覚知覚を使った表象と同じです。表象は喋ってくれません。表象がもつ情報を表現するのは言語と知識の組み合わせです。

(物語と文脈)

 実在や物自体は物語や文脈とは縁がありません。ですから、実在や物自体には歴史もありません。視覚的な表象は視点をもち、場面を自由に変更することができます。つまり、私たちの表象は文脈をもち、それは始終変化しています。文脈が入れ替わり、別の文脈へと舞台が変わると、表象も変わります。視点の変化に応じて表象は変わり、その意味では表象は局所的で、個別的で、部分的です。でも、私たちの表象は実在や物自体より優れている点をもっています。それは時と場合に応じて表象を巧みに変えられる点にあります。表象には視点があり、その視点は私たち自身によって変えることができるのです。どのように文脈を設定し、視点を変え、物事の姿を描き出すかといったことを考えると、表象こそ物語をつくる基本的な素材であることがわかってきます。それは実在するものの普遍的で変わらない本性とは根本的に違っています。それだからこそ、表象を基本に置いて物語を生み出すことができるのです。実在や物自体から物語をつくることはできません。表象の世界はヘラクレイトス的な万物流転の世界、実在や物自体の世界はパルメニデス的な不変の世界と言えるでしょう。

 ところで、実在や物自体に色や味はあるでしょうか。こんなくだらない質問に耳を傾ける哲学者はいないのですが、それというのも、色や味などは典型的な第二性質であり、実在や物自体にはないことになっていたからです。でも、表象は色や味が命です。色や味が表象を生き生きしたものにしているのです。色や味が様々な文脈で重要な役割を演じ、文脈が舞台を変え、物語を進行させていくのです。

(私やあなたの表象、誰のものでもない実在)

 私の表象は彼の表象とは違います。私の表象は私だけのもの、私の所有物です。ですから、私は自分の表象を独り占めして、他の誰かにそれを隠すことができるのです。と同時に、彼の表象を知りたいと躍起になり、遂には彼の表象を聞き出すこともできます。実在は誰のものでもなく、公共のものと考えるのが妥当です。誰かの所有でないのが実在や物自体の特徴です。自らの表象をもち、他人にそれを隠したり、白状したりできる点で、実在より表象の方が人間的で、血が通っていると言えるのかも知れません。

 さらに、「表象を記憶する」、「実在を記憶する」、「知識を記憶する」、これら三つの間には違いがあります。個々の記憶は表象として思い出されます。実在は知識と表象の合作ですから、言明として記憶される場合が普通です。知識は明白に言明として思い出されます。私の表象は私の記憶として残ります。表象と実在の違いは記憶についても同様で、記憶の中の実在は言語で表現されるものとして私の記憶ではなく、私たちの記憶となります。