表象から実在へ(あるいは、情報から知識へ)

  昨今はアナログ的な外部刺激が表象と、ディジタル的な外部刺激が情報と呼ばれる場合が増えてきている。アナログ的な内容をもつ表象、イメージ、主観、意識などの語彙は確固たるもの、しっかりしたものではなく、それゆえ、頼ることができないものと長い間考えられてきた。それに対して、実在、客観、実体、物自体は信頼できる、揺れ動かないものと考えられ、(情報概念は抜け落ちたまま)二元論的な世界観によって周りの環境を捉えてきたようである。だが、何が信用でき、何が信用できないかは心理的なものに過ぎない。

 表象が視覚的情報によって支配されていることは証拠を挙げる必要などないほどに知らている。確認のためにいくつかの謂い回しを以下に挙げておこう。

 

夢を見るが、夢は聞かない。

想像図と言うが、想像音とは言わない。

意識は画像のようなものだが、音波のようなものではない。

(表象以外でも)感情は見えない。意思も見えない。

 

 このような表現はまだまだいくらでも挙げることができるが、それらが示唆することは明らかで、人は視覚的な生き物で、それが表象にも意識にも、さらには知識にもそのままつながっているということである。

 むろん、視覚以外の表象もある。聴覚的な意識を想像することができるし、音楽家の意識は聴覚的、盲目の人の意識も聴覚が中心になっている。だが、圧倒的に意識は視覚的である。表象は視覚的でも、実在は私たちの感覚に支配されることはない筈なのだが、視覚的な影響は歴然と残っている。

 ところで、気づく(be aware of)ことが意識する(be conscious of)ことである。怒りや悲しみ、痛みや苦しみに気づくこともあり、表象だけでなくそれら感情に気づくことも意識することである。「気づき」と「意識」は同義語だと考えると、わかりやすい。表象や感情に気づくことがないと、表象について分析することのスタートは切れない。本能は表象に気づかなくても自動的に反応する術を心得ていて、その場合は意識することが省かれる。気づくことの生理的なプロセスに気づかないのは当たり前のことで、私たちはもっぱら気づくことの内容について気づくのである。何かを知覚し、それを意識し、その情報を処理、分析し、何を知覚したかが明らかにされる。それが何かが重要なのであって、それが実在するか、表象に過ぎないのかは次の段階の仕事となる。  

     その次の段階の仕事に関する論争が、科学哲学の専門家の間でかつてよく議論されたの科学的実在論と科学的経験論。「実在」を科学が捉えることができるとする科学的実在論と、科学は経験的なデータをうまく説明する仮説だという科学的経験論とが互いに戦ってきた。古典物理学実在論的な解釈にうまく合い、量子力学は経験論的解釈が適している。その決着が科学に大きな変化をもたらすことはないのだが、一見すると科学は何についてのものかで大きく意見が分かれるような印象を与えるのである。その理由は実在論と経験論との歴史的な対立にある。確かに哲学の歴史の中でこの二つは根本的な対立だと大袈裟に信じられ、哲学史にドラマティックな論争を供給してきた。その哲学史も真面目に信じるべきではないのだが、科学的実在論と科学的経験論との論争もどのような理論についてのものかが重要で、主義主張の問題にすべきではない。これら二つの主張はほとんど同じで、何が違うかと言えば、実在を想定するか否かの話で、想定してもしなくても科学的な事実に変わりは出ないのである。