謎のコブシ(3)

  コブシの生態をタネに、想像力を発揮して私たちの心に訴える物語をつくることは文学者にとっての本懐なのだろうが、それはコブシについての真正の知識であることとは余り関係がなく、それを知識と仮定した上で、どのような物語が展開されるかに人々の関心はもっぱら向けられる。この偏重や不公平は腹立たしいものだが、それが人間の関心というもので、単純な事実の究明よりスリリングな物語の展開の方に圧倒的な関心が払われるのが人の常である。文学者が人間的で、科学者が非人間的なのではなく、文学が科学より人間の本性に密着し、それを巧みに利用することに長けているからに過ぎない。要は、文学の方が科学より人間を知っているに過ぎなく、文学の方が狡いのである。

 コブシの集合果が動物たちを集めるための適応かどうかは意外とわかっていない。果実が動物を使った繁殖方法の一つであることはよく知られているのだが、コブシの事例についての実証研究は意外に少なく、大抵は推測の域を出ていない。コブシの果実は美味しくないし、美形でもない。中の種子も動物の関心を引くものをもっていない。

 にもかかわらず、映画がつくられ、その原因の一つがコブシの生態だということになれば、ちょっとは好奇心も湧いてくるものである。コブシについての生物学的な常識を受け入れ、それを使って想像を働かせ、何本かの映画に結実した訳である。コブシについての正確な知識は映画には求められない。それは私たちの日常生活でのコブシについても同様である。私たちの社会は一定の間、一定の基準を満たせば、コブシの常識を黙認し、擁護さえするのである。

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 文学も日常もコブシについての知識を受け入れ、それに反することは誤りだと指導することになる。こぶしの果実はグロテスクな形状だけでなく、時には「赤ん坊のにぎりこぶし」とも言われている。人の見方は様々なのだが、売り物の果実に慣れ親しんだ私たちには野生の果実の形状が解せない。本来は売り場の果実の方が解せない形状な筈なのだが。

 生物学的には、被子植物の果実はその中に種子を含む構造のこと。被子植物の種子は子房の中で成熟し、その子房が果実になるので、被子植物の種子は果実に入っている。このような果実は、植物の繁殖戦略として、動物の食料になる部分を種子の周りに発達させ、食われることによって動物の体内を通じて種子をまき散らすという目的のために進化した。動物の側から見ると果実は往々にして糖類に富み、消化のよい食物である。そのため葉や茎を食べる草食動物のような消化の難しさはなく、特殊な適応は必要ない。

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 果実はその形状から様々に分類されている。その一つが集合果である。集合果は、一つの花から複数の果実が集まって生じるもので、果実の集まりであるが、果実そのものではない。コブシの珠柄は臍の緒にあたることは見て明らか。種子が成熟した後は生理的な役割は終えているはずなのに、この繊維質の細く白い糸の束のようなもので種子が垂れ下がる。何かの役割、機能を担っていることは確かなのだが、その説明を私は知らない。

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 まず、種子の赤い色は鳥へのアピールであることは経験的に理解できる。では、この種子をぶら下げることにどんな意味があるのか。まず、袋果は閉じたままでは鳥は種子をついばむことはできないから、裂開させなければならず、また裂開することで初めて赤い種子の色を見せることになり、鳥を招くことができる。そこで考えられるのは次の二点である。まず、袋果を裂開した場合に、種子を地上に落としてしまったら、鳥に見つけてもらえないし、食べてもらえる可能性がなくなるから、珠柄は果実成熟後も裂開した袋果に種子を引き続きつなぎ止めておくためだと考えられる。この見方では、珠柄は必ずしも伸びる必要はない。次は、これも鳥に対するサービスで、種子が短い糸でぶら下がっていれば、鳥は袋果から取り出すこともなく、簡単についばむことができると考えられる。

 ところで鳥は本当にモクレン科樹種の赤い種子を食べるのか。既述に従えば、最初からモクレンの仲間の赤い種子は鳥がついばむもの、つまり、種子散布の主役は鳥であるとの仮説、思い込みが前提となっている。だが、赤い種子を鳥がついばんでいる風景などほとんど見たことがない。そこで調べてみると、一応は鳥が散布者として概念的には整理されているが、要は余りよくわかっていないというのが実態のようである(渡辺朝一「コブシの果実を採食する鳥類」我孫子市鳥の博物館調査研究報告、vol.15No.2(2007))。

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 ところで糸で種子を垂らすのは普通のことなのか。植物図鑑ではモクレン属の各樹種では、袋果が裂開して赤い種子が種柄で垂れ下がると書かれているが、糸でぶら下がった種子はほとんどない。「ほとんど」というのは、たまにぶら下がった種子を見ても、人の手が加わったもので、自然状態での現象と断定できないからである。

 このように見てくると、コブシの生態はわからない部分が多く、「知ったかぶり」があちこちに顔を出している。「なぜ真なのか理由が不明」の情報を知識として認めてしまうことが知ったかぶりで、日常生活では当たり前のことである。知ったかぶりをしなければ生きていけないのである。究極の知識を求め、物事の真の姿を見極めようとすると、特定のものに限定せざるを得ず、森羅万象の原理を追求することなど夢でしかないのである。

 そもそも概念として対象や現象を理解するとは、「知ったかぶる」ことである。実際の知識は不十分、不完全な情報に対する判断、決定なのである。つまり、知識とはずっと真なるものではなく、暫定的に真なるものに過ぎないのである。特に、経験的知識は知ったかぶることであり、知ったかぶることは仮定することである。

  コブシについての私たちの知識はあくまで暫定的で、時には迷信、誤った通念でしかないのだが、それでも「コブシはこうなのだ」と断定しての話の展開は、断定にではなく物語の展開の面白さに支配されることになる。物語の圧倒的な優位性のもとでは仮説は誰にも注目されない。その不公平に気づくことが新しい物語へと繋がっていく。

 コブシへの好奇心は科学者も文学者も多分同じだろう。だが、その好奇心からスタートする行為は大いに違っている。コブシの集合果への疑問は鳥を惹きつける作戦だと断定し、知ったかぶりして、それをもとにさらに想像力を働かすことになる。

 科学者、文学者、普通の人の間には知ったかぶりの程度の違いがあるようだ。科学者は知ったかぶりが後ろめたいことを自覚していて、物語の展開より仮説の断定に気を配る。普通の人はほぼ自然に知ったかぶりをする。これは無自覚の知ったかぶりである。文学者は意図的に知ったかぶり、物語の展開にもっぱら関心を集中する。

 こうして、コブシの「謎」は仮説にあるか、物語にあるかで違ってくる。科学者は仮説に、文学者は物語に謎を見出していることがわかるだろう。普通の私たちとなれば、仮説と物語のいずれにも特段の関心を示さず、随筆風に淡々とその花の風情を楽しみ味わうようである。