謎のコブシ:知ったかぶる(pretend to know)

  私たちは敢えて「知ったかぶる」場合があり、それは他人に対する虚勢かも知れないし、自己防衛かも知れない、と普通は思われている。だが、そうではなく、私たちは始終、そして本質的に「知ったかぶる」のである。私たちの知ったかぶりが本質的だと言う意味は、大袈裟に言えば、生きる上で私たちは「知ったかぶり」をしないと生きていけないということである。何かを決断し、行為するために私たちは通常知識や記憶に頼る。自らが知っていることを使って、直面する事態を判断し、意思決定するのだが、その知識が正しいかどうかについては「知ったかぶり」によって正しいと見做すのである。自分が使う知識は自前で賄うのではなく、既製品を使うのが常であり、その際の既成知識への信頼が「知ったかぶり」という認識上の表現なのである。これは自分が新しくつくる知識の場合も同じで、新しい知識をつくるための出発点に置かれ、使われる知識は既存のものであり、それらは「知ったかぶる」知識として仮定されるのである。  まとめるなら、私たちが不可避的に「知ったかぶる」のは、私たちの知識が暫定的、仮定的であることの別表現に過ぎないのである。

 「知ったかぶり、知ったかぶる」という奇妙な表現の解説をしておこう。日本語だけで考えていると独断的になるので、英語表現の助けを借りることにしよう。まずは、日常的な例文を見てみよう。

(1)He pretended to have no knowledge of her whereabouts.

 彼女の居場所は知らないと空とぼけた。

(2)He pretends to great knowledge.

 彼は博識だと自認している。

(3)It was found out that you were pretending to know.

    あなたの知ったかぶりがばれる。

(4)I am already tired of that know-all!

 その知ったかぶりにはうんざりする。

(5)Bella was such a know-it-all that no one liked her.

 ベラは知ったかぶりを言うので、誰にも好かれなかった。

 これらの例文には価値判断が相当に入り込んでいて、実際の「知ったかぶり」には良い意味はほとんどない。「pretend to know」が「知ったかぶる」、「pretend not to know」が「知らぬふりをする、とぼける、しらばくれる」とまとめても、そこには良からぬ意図が浮き出ている。さらに、「He always pretends to know all about it.」は「彼はそれについていつも知ったかぶる」、「He will pretend not to know about the gossip.」は「彼はその噂についてしらばくれるだろう。」も同様である。

 これら例文が示唆することは何か。「知ったかぶり」への軽蔑なのだが、知ったかぶるという振舞いだけでなく、知識を盗用することへの嫌悪も含まれている。知ったかぶりは知識の正しい使い方ではない。あるいは、正しいかのように情報を操って人を騙すのが知ったかぶりだと断罪される。

 私がここで主張したいのは、「知ったかぶり、知ったかぶる」の悪しき意味を忘れ、それこそが知識の本性である、ということである。例えば、古典力学は運動の三法則と重力の法則から成り立っている。これら四つの法則が知識であることを知ったかぶることによって議論を展開するのが仮説演繹法であり、古典力学はこの方法によって広く使われることになった。より一般的に、公理系は公理を知識と知ったかぶることによって使われる。このテーゼを「コブシ」を使って具体的に考えてみよう。

 

 ハスとスイレンは見かけは似ていても、まるで別物なのだが、コブシ(辛夷)とモクレンは、共にモクレンモクレン属の落葉広葉樹。いずれが好きかと問われると困ってしまう。どちらも優劣つけがたしで、私の中では未だに決着がついていない。コブシは早春にいち早く白い花を梢いっぱいに咲かせる。花はふつう一個の雌しべをもち、これが成熟して一個の果実となる。だが、一個の花に多数の雌しべがあると、その多数の雌しべから一個の果実ができることが多い。一つの子房に由来する果実が単果、一つの花の複数の子房に由来する果実が集合果。イチゴが集合果の代表で、コブシもその一つ。  コブシの果実はにぎりこぶし状のデコボコがある。発生阻害としか思われないような形状で、大きさも様々である。袋菓が結合し、所々に瘤が隆起した形状。この果実のにぎりこぶしの形がコブシの名前の由来である。私たちが食べる果実は色や形が整っているものがほとんどだが、コブシの実はそれとは正反対の形で、なぜなのかとても気になる。

 一方、花は純白で、基部は桃色を帯び、その形状は息をのむほどに美しい。枝を折ると、芳香が湧出する。アイヌはコブシを「オマウクシニ、オプケニ」と呼んだが、アイヌの言葉で「良い匂いを出す木、放屁する木」という意味だそうである。

 コブシの集合果はその異様な形状だけでなく、種子も不思議な様態を示す。 成熟して袋果が裂開すると赤い種子が白い糸でぶら下がるのである。これまた好奇心を掻き立てるが、その謎解きは次の機会にしよう。

 文系の若者ならもっとましなタイトルをつけ、人の欲望と想像力を巧みに混じり込ませてコブシをネタに惡の華をまき散らすこと必定だろうが、文系の端にしかいなかった私にはそんな才覚もない。それでもオッカナビックリ、まずは映画作品をネタに使ってその真似事をしてみるとしよう。

 まず、コブシの集合果の異形の形態がプロテウス症候群を彷彿させる。1980年製作の「エレファント・マン(The Elephant Man)」の舞台は19世紀のロンドン。生まれつき奇形で醜悪な外見のため「エレファント・マン」として見世物小屋に出ていた青年がジョン・メリック。肥大した頭蓋骨は額から突き出て、腫瘍が身体中にあり、歪んだ身体で杖なしには歩けない状態だった。彼を見世物小屋で見かけ、興味をもった外科医フレデリック・トリーブスは彼を引き取り、彼の様子を観察した。すると、トリーブスはジョンが聖書を熱心に読み、芸術を愛することに気づく。実は、コブシと「エレファント・マン」との関係は何もない。集合果の形態だけが私の個人的な(誤った)連想を引き起こしたに過ぎない。

 次に、果実が集合したコブシの名前が映画「Magnolia」の命名理由の一つと推測してみよう。だが、そのためにはコブシのMagnoliaがモンペリエ生まれのフランスの植物学者マニョル(Pierre Magnol)に因むことなど一切無視し、集合果と群衆劇を比喩的に重ね合わせて映画のシナリオができ上がっていると解釈してみよう。

 物語に登場する面々は次のようである。女を掴むコツをレクチャーするカリスマ、フランク・T・J・マッキー、ヤクに溺れ、自堕落なボロボロの生活をしている、クローディア、その彼女の父親で人気テレビ司会者のジミー・ゲイター、そして、その妻のローズ。さらに、ジミーが司会するクイズ番組で、連勝をしている天才少年スタンリー・スペクター、昔のクイズ番組で天才少年と持て囃されたが、電気商店でセールスの仕事をしているドニー・スミス、末期ガンにより死の間際にいる大富豪、アール・パートリッジ、その大富豪を介護しているヘルパーのフィル・パルマ、その大富豪と結婚をしたとても若い妻、リンダ・パートリッジ。最後に、警察の仕事に誇りをもち、質素で善良な生活が好きな警官ジム・カーリング。そんな彼らが一つの街の中で様々に関わり合っていくのである。

 この映画は、会話のやり取りがとてもリアルに、生き生きと描かれている。会話の途中の隙間、会話の間に潜む駆け引き、探り合い、無視、誤解等々の会話の綻びが何ともうまく表現され、会話が思考とも推論とも違うことが的確に描かれている。

 この会話にリアリティがあるからこそ、映画のそれぞれのシーンが私たちの心を捉えて離さないのである。この映画を見た後で、大抵の人は「一体この雑然として話の群はなんだったのか?」と訝しく思う筈である。この映画で起きた出来事は、どんな意味があったのかよくわからないのである。だから、この映画は「明解な答えを観客に与えないようにつくられている」からだと想像したくなる。様々な出来事が描かれ、様々な登場人物の生きざまが描かれるが、そこに一貫性はなく、登場人物同士の「繋がり」はあるが、それぞれの人生はみんなバラバラ。だから、「人生に一定の法則はない」という法則を描くのがこの映画のテーマなのだろう。

 「Magnolia」が木蓮ならば、それはミシシッピー州の州花。だが、この作品のタイトルの由来は、舞台になっている地名のサン・フェルナンド・バレーの「マグノリア・ストリート」からでもある。映画の最後は誰もが驚く。現状を変えたいと思っていても、日々積み重ねられてきた習慣、人とのしがらみは立ち切れない。そこに来てカエルの大雨。台風が近くの池のカエルを巻き上げたのだった。だが、蛙は聖書で「変わる、リセットする」などの意味を持ち、「やり直せる、リセットできる」という暗示になっている。

 聖書絡みのカエルから想起されるのは「2001年宇宙の旅」。単独で探査を続行したボーマン船長は木星の衛星軌道上で巨大なモノリスと遭遇、スターゲイトを通じて、人類を超越した存在スターチャイルドへと転化する。キリスト教が顔を出すと、シナリオは途端に黴臭いものになる。現在ならば、気の利いた監督は聖書を持ち出すなどという時代錯誤なことはしないのではないか。「マグノリア」も「2001年宇宙の旅」も、その点では古典的スタイルを踏襲し、パターン化されている。生き物の世界の真のダイナミズムが教義や勧善懲悪の倫理の眼鏡で曇ってしまうのである。

 さて、これらが文系崩れの妄想である。コブシの集合果の本性をしっかり突き止める前に、巧みな思い込みと想像によって映画を媒体にして人や世界の真実を描くことに使われるというからくりのほんの一部は明らかになったのではないか。私の無駄話はこの位にして、肝心のコブシの集合果に話を戻そう。

 コブシの生態をタネに、想像力を発揮して私たちの心に訴える物語をつくることは文学者にとっての本懐なのだろうが、それはコブシについての真正の知識であることとは余り関係がなく、それを知識と仮定した上で、どのような物語が展開されるかに人々の関心はもっぱら向けられる。この偏重や不公平は腹立たしいものだが、それが人間の関心というもので、単純な事実の究明よりスリリングな物語の展開の方に圧倒的な関心が払われるのが人の常である。文学者が人間的で、科学者が非人間的なのではなく、文学が科学より人間の本性に密着し、それを巧みに利用することに長けているからに過ぎない。要は、文学の方が科学より人間を知っているに過ぎなく、文学の方が狡いのである。

 コブシの集合果が動物たちを集めるための適応かどうかは意外とわかっていない。果実が動物を使った繁殖方法の一つであることはよく知られているのだが、コブシの事例についての実証研究は意外に少なく、大抵は推測の域を出ていない。コブシの果実は美味しくないし、美形でもない。中の種子も動物の関心を引くものをもっていない。

 にもかかわらず、映画がつくられ、その原因の一つがコブシの生態だということになれば、ちょっとは好奇心も湧いてくるものである。コブシについての生物学的な常識を受け入れ、それを使って想像を働かせ、何本かの映画に結実した訳である。コブシについての正確な知識は映画には求められない。それは私たちの日常生活でのコブシについても同様である。私たちの社会は一定の間、一定の基準を満たせば、コブシの常識を黙認し、擁護さえするのである。

 文学も日常もコブシについての知識を受け入れ、それに反することは誤りだと指導することになる。こぶしの果実はグロテスクな形状だけでなく、時には「赤ん坊のにぎりこぶし」とも言われている。人の見方は様々なのだが、売り物の果実に慣れ親しんだ私たちには野生の果実の形状が解せない。本来は売り場の果実の方が解せない形状な筈なのだが。  生物学的には、被子植物の果実はその中に種子を含む構造のこと。被子植物の種子は子房の中で成熟し、その子房が果実になるので、被子植物の種子は果実に入っている。このような果実は、植物の繁殖戦略として、動物の食料になる部分を種子の周りに発達させ、食われることによって動物の体内を通じて種子をまき散らすという目的のために進化した。動物の側から見ると果実は往々にして糖類に富み、消化のよい食物である。そのため葉や茎を食べる草食動物のような消化の難しさはなく、特殊な適応は必要ない。

 果実はその形状から様々に分類されている。その一つが集合果である。集合果は、一つの花から複数の果実が集まって生じるもので、果実の集まりであるが、果実そのものではない。コブシの珠柄は臍の緒にあたることは見て明らか。種子が成熟した後は生理的な役割は終えているはずなのに、この繊維質の細く白い糸の束のようなもので種子が垂れ下がる。何かの役割、機能を担っていることは確かなのだが、その説明を私は知らない。

 まず、種子の赤い色は鳥へのアピールであることは経験的に理解できる。では、この種子をぶら下げることにどんな意味があるのか。まず、袋果は閉じたままでは鳥は種子をついばむことはできないから、裂開させなければならず、また裂開することで初めて赤い種子の色を見せることになり、鳥を招くことができる。そこで考えられるのは次の二点である。まず、袋果を裂開した場合に、種子を地上に落としてしまったら、鳥に見つけてもらえないし、食べてもらえる可能性がなくなるから、珠柄は果実成熟後も裂開した袋果に種子を引き続きつなぎ止めておくためだと考えられる。この見方では、珠柄は必ずしも伸びる必要はない。次は、これも鳥に対するサービスで、種子が短い糸でぶら下がっていれば、鳥は袋果から取り出すこともなく、簡単についばむことができると考えられる。

 ところで鳥は本当にモクレン科樹種の赤い種子を食べるのか。既述に従えば、最初からモクレンの仲間の赤い種子は鳥がついばむもの、つまり、種子散布の主役は鳥であるとの仮説、思い込みが前提となっている。だが、赤い種子を鳥がついばんでいる風景などほとんど見たことがない。そこで調べてみると、一応は鳥が散布者として概念的には整理されているが、要は余りよくわかっていないというのが実態のようである(渡辺朝一「コブシの果実を採食する鳥類」我孫子市鳥の博物館調査研究報告、vol.15No.2(2007))。

   また、糸で種子を垂らすのは普通のことなのか。植物図鑑ではモクレン属の各樹種では、袋果が裂開して赤い種子が種柄で垂れ下がると書かれているが、糸でぶら下がった種子はほとんどない。「ほとんど」というのは、たまにぶら下がった種子を見ても、人の手が加わったもので、自然状態での現象と断定できないからである。

 このように見てくると、コブシの生態はわからない部分が多く、「知ったかぶり」があちこちに顔を出している。「なぜ真なのか理由が不明」の情報を知識として認めてしまうことが知ったかぶりで、日常生活では当たり前のことである。知ったかぶりをしなければ生きていけないのである。究極の知識を求め、物事の真の姿を見極めようとすると、特定のものに限定せざるを得ず、森羅万象の原理を追求することなど夢でしかないのである。

 そもそも概念として対象や現象を理解するとは、「知ったかぶる」ことである。実際の知識は不十分、不完全な情報に対する判断、決定なのである。つまり、知識とはずっと真なるものではなく、暫定的に真なるものに過ぎないのである。特に、経験的知識は知ったかぶることであり、知ったかぶることは仮定することである。 

 コブシについての私たちの知識はあくまで暫定的で、時には迷信、誤った通念でしかないのだが、それでも「コブシはこうなのだ」と断定しての話の展開は、断定にではなく物語の展開の面白さに支配されることになる。物語の圧倒的な優位性のもとでは仮説は誰にも注目されない。その不公平に気づくことが新しい物語へと繋がっていく。

 コブシへの好奇心は科学者も文学者も多分同じだろう。だが、その好奇心からスタートする行為は大いに違っている。コブシの集合果への疑問は鳥を惹きつける作戦だと断定し、知ったかぶりして、それをもとにさらに想像力を働かすことになる。

 科学者、文学者、普通の人の間には知ったかぶりの程度の違いがあるようだ。科学者は知ったかぶりが後ろめたいことを自覚していて、物語の展開より仮説の断定に気を配る。普通の人はほぼ自然に知ったかぶりをする。これは無自覚の知ったかぶりである。文学者は意図的に知ったかぶり、物語の展開にもっぱら関心を集中する。

 こうして、コブシの「謎」は仮説にあるか、物語にあるかで違ってくる。科学者は仮説に、文学者は物語に謎を見出していることがわかるだろう。普通の私たちとなれば、仮説と物語のいずれにも特段の関心を示さず、随筆風に淡々とその花の風情を楽しみ味わうようである。