知ったかぶることによって知識は私たちのものになる

  物知りとは知ったかぶりのことである。また、知識を駆使することは、知ったかぶることである。知識を使えば使う程、知ったかぶりの度合いは高くなる。だから、博覧強記とは、さしずめ知ったかぶりの極め付けと言うところか。なんでもよく知っている池上さんをその典型例と思ってもいいだろうし、文献学者や書誌学者の資料収集とその内容への通暁を思い浮かべてもいいだろう。既に読者諸氏は「知ったかぶり」が悪い意味ではなく、網目のような構造をもった知識との付き合い方の特徴の一つだということを理解している筈で、人間が知ることの特徴そのものなのである。

 私たちは知識を論理と言語によって取り扱っている。知識を操作する道具として論理と言語は決定的な役割を演じてきた。言葉で表現し、論理で加工するという分業は実に巧みで、その上、異なる言語でも論理は共通になっていて、どの言語にも共通する基本的な規則が論理なのである。文法は言語の規則、論理は思考の規則である。このような道具立てのもとで、知るべき対象が扱われることになる。

 事実の確認や実証も別の知識を前提に行われる。その知識が「仮説」である。実証するためには前提にする知識が必要であり、その知識は実証するために使われる知識であり、仮定されるものである。つまり、そのからくりだけ述べれば、知識を使って知識を手に入れるという訳である。使われる知識は仮説として「知ったかぶる」ことになる。  論理と言語は知ったかぶりの揺り籠になっている。その組み合わせの例を一つ見てみよう。

 

AはB、BはC、だからAはC。

 

Dさんは「AはB」だと知っていたが、「BはC」だと知らなかった。それを他の人から聞いて、Dさんは「AはC」と普通に結論した。A、B、Cは文であり、それら文で表現された事柄、事態についての知識を組み合わせ、論理的な変形をした結果が「AはC」であり、Dさんが知ったことである。Dさんは少なくとも「BはC」を自分で確かめた訳ではない。だが、それをうまく使って、結論「AはC」を手に入れたのであり、それは論理と言語表現のお蔭である。つまり、論理と言語は知ったかぶりの揺り籠なのである。

 今の私たちにとって、知識は万能型ではなく、分業型で扱われている。知識を獲得する、知識を利用する、知識を教育するといった場面のほぼすべてにおいて、知識は分割され、分業体制で扱われている。一人の人がすべての分野の知識を一括して扱い、教えると言ったことは既にない。「普遍数学」に当たるような知識はなく、アリストテレスのような万能人もいない。だから、自らの分野を離れた知識は他人に頼らなければならない。それが「知ったかぶり」をさらに助長させることになる。このことは学習についても同様である。テキストを読むことによっての学習はとても人間的で、言葉を通じて間接的な仕方で知ることになるのだが、これも「知ったかぶり」の醸成に役立ってきた。

 私たちは情報を食べながら生きていると言われて久しいが、始終知覚しながら情報を処理し、それを使って生きている。言葉を操ること、知覚することの二つが私たちの経験を構成している。その一つである知覚のもつ特徴は、ものを表面的に捉える点にある。例えば、視覚は対象の表面しか見ることができないし、耳で聞くことができる波長は限られている。知覚は一定範囲の限られたものしか感じ取ることができない。その上、現在しか知覚できない。過去や未来、自分がいない場所での知覚はできず、知覚できる範囲は極めて限定されている。つまり、ほとんどすべてが見えず、聞こえず、感じることができないのである。過去の記憶の信憑性は部分的で、未来は知覚できない。だが、誰もその点的な知覚を知識を使って巧みに補完し、まとまりのある知覚像や因果的な物語を作り出している。そして、そのためには知ったかぶることが不可欠なのである。

 意識的な知ったかぶりは研究者には当たり前のことで、何を前提にして何をどのように導出するかが彼らの仕事になっている。前提として仮定される知識は正しいものと想定され、その前提が知ったかぶりだと意識されている。一方、普通の私たちは無意識的な知ったかぶりをむしろ巧みに駆使して、相手を助けたり、また騙したりしている。知っていることと知っていないことの境界を意識する研究者と違って、その境界を無視して縦横無尽に知ったかぶるのが私たちなのである。