リアリティとサブスタンス

  昔ほど、不変の対象、普遍の原理に憧れ、それに頼って出来事や現象を解釈、理解していたようである。私たちが何を、どのように知るかという認識に関する問題の前に議論されたのは目の前に存在するものであり、その存在するものの本性を扱った存在論は人類最初の理論化の枠組みだった。18世紀まで基本概念として君臨していたサブスタンス(実体)が思考される存在や存在物と結びついていたのに対し、現在よく使われているリアリティ(現実)は知覚される出来事や現象と結びついている。

 姿、形のないものほど、具体的なもの、例えば、音楽、美術、建築などを駆使して具体的に私たちの心に働きかける傾向がある。精神的な事柄についての代表となればは宗教。宗教はそのメッセージを人工的なものに託して伝えようとしてきた。寺院、教会、仏像、聖像、絵画等々、私たちを圧倒する作品によってそのメッセージを伝えてきた。巧みに芸術、技術を使い、自然の光景を凌駕する人工の光景を生み出してきた。それらは「ヴァーチャルな人工リアリティは真のサブスタンスを間接的に表現する」という証拠にもなっている。この手法は実に有効で、今でも活用されている。姿、形のないサブスタンスほど人工物のリアリティに頼って実体化、現実化を実行するのである。そして、仮想現実、拡大現実等々、私たちはかつてはなかった人工的なリアリティを手に入れ続けている。

 ところで、神は特別の実体であり、私たちは神をリアリティとして様々に表現しようとしてきた。神社は神の座であり、神と人のための祭りをする場所でもある。キリスト教では神がこの世界を無から創造したため、神はこの世界の中にはおらず、世界の外の存在である。従って、教会は神に祈りを捧げる聖域だが、神のいる場所ではない。だが、カトリックでは、司祭の執行するミサ等、特定の時には神が祈りの場に臨在すると説く。原始仏教は本来無神論で礼拝対象など必要ないのだが、大乗仏教では出家の修行道場に仏像が祀られ、祈願の行われる特別の場所となった。

 例えば、特別の山や石や樹木は原初の神社となることができた。その理由は、古代の人々がそれらに対して信仰心をもったからというだけでなく、それらが地上にあって、固定した場所をもった特別のものだったためで、そのことによって祭祀の場所が定まり、それが神社の設置になったのではないか。自然物に対する原始的なアニミズムの信仰がそのまま神社に発展したのだが、その自然物は特定の場所にあるリアリティをもったものゆえに神社になったのである。 原初の神社が神体として祀っていた自然物は、山、岩石、樹木、湧泉のようにすべて地上のもの、地面に定着したものである。一方、巨大な入道雲や美しい夕焼け、猛烈な嵐や稲妻は、古代の人びとに畏怖の念を呼び起こした筈だが、そうした自然現象自体を神体として祀った神社はあるだろうか。自然現象を引き起こす原因として、風雨や雷の神を祭った神社はあるが、神体としてそれらの自然現象自体を祀っていたという例は聞かない。自然現象はリアリティをもつが、それだけでは信仰の対象とは認められず、それを引き起こす原因として不変なサブスタンスが必要だったのである。具体的には、まずは地上に固定した実在が信仰の対象になったのである。

 拡大する仮想現実の中で、サブスタンスとリアリティの関係が柔軟になり、かつての実在や実体とは全く異なる実在や実体が生まれてくるのではないか。少なくても、リアリティの質や範囲が変わることによって、理論や思想、そして宗教が変わり、そこで主張される実在も変わることは至極当然のことである。だから、極端な場合、地上にない自然現象そのものが信仰の対象になってもおかしくないのである。仮想が現実に変わり、神の領域に人が侵入し、リアリティはサブスタンスの範囲さえ大きく変えるだろう。