変化か不変か:その真の意味

 <伝統的で平凡だが、わかりやすい説明>

 ヘラクレイトスは変化に注目し、それこそが自然を理解する鍵だと考えた。度肝を抜き、困惑を引き起こすだけのような「万物流転」の理論はプラトンによっておよそ次のように説明されている(『クラチュロス』402A)。ヘラクレイトスが言うには、すべては変化し、静止しているものはない。存在しているものを川の流れに喩えれば、人は同じ川に二度と入ることはできない。では、ヘラクレイトスの難渋な理論はどのような内容なのか。プラトンは流動理論とも呼べるこの理論が、すべては常に変化し、どんな対象もその構成成分を不変のまま保持することはないという主張だと捉えた。だが、ものが動いて変化する過程の中で、その同一性を保つことは不可能ではない。これは流動性にも程度があることを暗示している。すると、次のような二つの理論あるいは解釈が考えられる。

(強い流動理論) どんな対象もあらゆる点でいつでも変化している。だから、持続するものはない。

(弱い流動理論) どんな対象もある点でいつでも変化している。だから、持続するものがある。

 では、ヘラクレイトスの流動理論はどのようなものなのか。彼の変化一般、特に流れる川の議論から、変化と持続は両立すると考えることもできる。弱い流動理論から、人は同じ川に入ることができるが、その川の水は違っていると主張できる。だが、プラトンによればそれは同じ川ではない。というのも、川の水が違うからである。いずれの解釈でも、流動理論は成立している。だが、流動理論から同一性とその持続の問題がうまく説明できるかどうかは不明である。これがヘラクレイトスの遺した問題である。プラトンの解釈ではヘラクレイトスは同一性に関する存在論(メレオロジー)を前提している。これは、対象の同一性はその構成部分の同一性に依存するという考えで、次のように定式化できる。

どんな複合的対象x、yについても、x=yなら、xのすべての部分はyの部分であり、yのすべての部分はxの部分である。

つまり、部分の同一性は全体の同一性の必要条件になっている。弱い流動理論ではこのような主張は成立していない。変化する中で、ある対象の同一性はどのように保持できるのか、という問いは万物流転と相性が良くないのは明らかである。 さて、流動理論を主張するヘラクレイトスとは違って、パルメニデスは変化そのものを否定する。変化は不可能で、その概念は矛盾を含んでいる。この主張は彼にとって仮説や観察の結果ではなく、演繹的推論の結論であった。また、彼は生成や消滅の不可能性も同じように演繹的推論の結論と考えた。パルメニデスは彼の中心的な主張を支持するために次のような推論をしている。まず、次の二つの前提をおく。

(1)ものを考えることができるなら、それが存在することは可能である。

(2)存在しないものは存在することができない。

この(2)は次の(3)と同じである。

(3)存在できるものは存在する。

したがって、(1)と(3)より、 ものを考えることができるなら、それは存在する。 そして、これは次のものと同じである。

存在しないものは考えることができない。

したがって、存在しないものは考えることも、そして、当然語ることもできない。この結論がパルメニデスの中心的な主張である。パルメニデスの推論は、T(x): xは考えられるものである、E(x): xは存在する、◇:可能である、を使って記号化することができる。何と彼の主張は様相概念を含んだものなのである。 パルメニデスの推論では様相の違いは無視され、区別がなくなっている。つまり、「可能的なもの=現実的なもの」という関係が成立している。では、パルメニデスの推論は正しいだろうか。最初の前提(1)は正しそうに見える。考えることができないものが存在するとは想像しにくい。だが、前提(2)はどうか。実際に存在しているものだけが存在可能であるとは考えにくい。では、なぜパルメニデスはこのように考えたのか。多くの意見が出されているが本当のところはわからない。パルメニデスはこの結論から次のように自分の主張を導き出す。その推論方法は、例えば、変化が存在することを主張しようとすれば、存在しないものについて語ることになってしまい、上記の結論に反してしまう、という帰謬法である。こうして、以下のような主張がなされることになる。

1生成や消滅は存在しない。

2 変化は存在しない。

3 運動は存在しない。

4 多数性は存在しない。

現在の私たちはこれらの結論のどれも正しいとは思わない。では、パルメニデスの推論に誤りがあったのだろうか。存在しないものは存在できない、存在の否定は存在の不可能性だと彼は考えた。また、すべての否定は存在の否定だとも考えている。これらは概念と存在が限りなく近いような特殊な状況でなければ成立しないだろう。

 

<二人は本当に対立することを述べているのだろうか>

 ヘラクレイトスパルメニデスの対立する主張はそれぞれが頼る根拠に違いがありそうである。ヘラクレイトスは私たちに知覚される現象の激しい変化に注目し、パルメニデスは私たちが経験するものを変化した後で言葉を使って表現する際の不変性に注目した。経験を重視するか、経験の表現を重視するか、二人の違いはそのような違いに起因するのではないのか。

 経験の内容を表現しようとすれば、言葉を使うのが私たちの特徴的な流儀である。自然言語は私たちの知覚経験を生き生きと描くことができる。一方、数学的な人工言語は自然の変化を正確に描くことができる。

 私たちは自然言語を駆使して、自然言語に何がしかを加えて、「物語」という仕組みを発明した。「物語」を使うことが子供のころから習い性になっているためか、因果的な現象変化と物語の区別が意識されなくなって、日常生活での因果連関は物語として理解されるのが普通になっている。例えば、因果応報は因果法則によってではなく、物語を通じて直観的に理解されてきた。この物語形式の発明は私たちが現象変化を捉える原型の図式になり、遂には物理的な因果系列と自然法則の組み合わせが現象変化の科学的な理解の図式になっていった。

 私たちが知覚する個々の現象は「現在」知覚する現象であるという制約をもっている。その知覚している現象が自然言語を通じて表現されることになると、言語のもつ時制表現によって過去や未来が現在に加わり、過去や未来を含む因果的なふくらみが出てくる。このふくらみが物語化には欠かせない。さらに、因果的な変化の理論化がなされると、ブロック宇宙という4次元的な世界がモデルとして採用されるようになる。知覚-言語-理論の統合的な組み合わせは、瞬間的な知覚から物語を通じて4次元的なモデルにまで拡大され、変形を繰り返しながら世界や現象が理解されることを示している。  知覚の変化、それが瞬間的な変化であれ、長時間に渡る変化であれ、そこにプロット(原因と結果のまとまり)がなければ、知覚される対象の同一性はなく、変化していく現象しか存在しない。物語に登場する出来事や対象の因果関係が重要になってくると、連続的な変化だけでなく、変化の中で持続する対象や出来事、同一のままで変化しないものが必要になってくる。さらに、対象や出来事が理論化されると、例えば運動は不変の質点がそれに対して加えられた力によってどのように運動変化するかが記述される。記述のための規則、法則は不変であり、対象である質点も不変でなければならない。

 知覚レベルの変化を重視し、変化を前面に出して世界を考えるか、変化を表現する言語やモデルを重視し、記述の不変的表現によって世界を捉えるか、の違いが二人の間の違いではないのだろうか。二人の主張は対立したものではなく、二つの側面を極端に誇張したものだと思われる。