デカルトは凄い:でも、デカルトでも誤る

  デカルト心身二元論を唱え、精神と物体は異なる実体だが、互いに相互作用していると主張しました。彼のこの主張が伝統となり、未だに多くの人々の心を支配しています。心と(物体の一つである)身体は別のものだが、相互に影響し合っているとあなたが考えるなら、あなたはデカルト主義者で、未だにデカルトの呪縛の中で生きていると言えます。デカルトに従って、心と(身体の一つである)脳は違うものだと多くの人が今でも信じています。でも、それは自分で考えた結論ではなく、実はデカルト心身二元論を学習した結果に過ぎないのです。

 伝統や習慣の多くは誰かが作り出したものです。天才とは一般人に先んじて未来の世界を先取りします。デカルトも今の私たちのような心をもっていたと言えるでしょう。心身二元論は時代を先んじて提唱され、西欧社会の伝統的な見方として君臨していました。でも、現在は二元論的でない見方が次第に強くなり、デカルトの呪縛から抜け出ようとしています。

 そのデカルトは心と身体が異なることをどのように証明したのでしょうか。彼の時代にはまだ実証することはできず、論証が大きな役割をもっていました。彼が試みた心と身体が異なることの論証の一つについて考えてみましょう。次の二つの論証についてそれらは正しいでしょうか。

 

デカルトは心をもっている。

デカルトのロボットは心をもっていない。

それゆえ、デカルトデカルトのロボットは同じではない。

 

デカルトは自分が心をもつことを疑うことができない。

デカルトは自分が脳をもつことを疑うことができる。

それゆえ、心と脳は同じではない。

 

最初の論証は文句なく正しいのですが、二番目のデカルトの論証は正しいでしょうか。それが正しくないことは次の類似の論証からわかります。 伊作は2 + 2 = 4を疑うことができない。 伊作は6-2 = 4を疑うことができる。 それゆえ、2 + 2は6-2と同じではない。 明らかに2+2は6-2と同じですから、この論証の結論は誤っています。では、誤りの原因は何でしょうか。最初の論証の前提は事実に関するものですが、後の二つの論証の前提は事実についての心的な態度(疑う)からなっていて、疑うことから事実に関する結論を出してしまった点にあります。

 デカルトは心身の違いについて「心は疑うことができないが身体は疑える」以外の理由を幾つも挙げていますので、上の論証が誤っていても、それで心身二元論が成り立たないという訳ではありません。

 上述の心と脳の違いについての論証は、信じる、疑うといった心的な態度は単純な論理規則に従わない面をもっていることに関わっています。デカルトにとって心とは意識であり、意識は何かを信じたり、疑ったりします。その心的な働きは次のような特徴をもっています。

 

ある文pが偽でも、「pを信じる(疑う)」ことが真であり得ます。ですから、「pを信じる」ことからpを導き出すことはできないのです。