心的態度の生み出す複雑怪奇さ

  私たちは外部から得る情報を文で表現し、その文の内容について「思う、考える、信じる、疑う」といった態度を自由にとることができる。これは周りで起こる現象についての心的な反応、判断、対応であり、情報を集約し、行動を決定するための一段階である。

 科学的な知識に関する基本的な前提は、文の真偽の判定によってその文の内容が事実かどうかが決まる、ということである。

 信念と事実が如何に異なるかをデカルトの懐疑を例にして既に示したが、二つの違いをさらに探ってみよう。人と文の間の心的関係は複雑で微妙なものだが、代表的なものに信念、欲求、意図、懐疑、知識等がある。これらは次のような文型で表現されている。ここでpは文である。

 

Apを信じる。

Apを欲する。

Apを疑う。

Apを知る。

 

Aに「伊作」、pに「ビートたけしはコメディアンである」を代入すると、最初の文について、

伊作はビートたけしがコメディアンであると信じる

という文ができる。ここで同一性を表す文「ビートたけし北野武である」を使い、代入によって、

伊作は北野武がコメディアンであると信じる

という文をつくってみよう。「ビートたけし北野武」から代入によってつくられた文の真理値は代入前の文の真理値と同じ筈である。だが、伊作が北野武を知らないのであれば、伊作は「ビートたけし北野武」を使うことができず、この推論を実行できない。これは、次のような正しい推論と異なっている。

 

4は3より大きい。

4は8の半分である。

よって、8の半分は3より大きい。

 

この推論で使われる代入の原理は上述の命題的態度が入った文では成立しない。伊作がビートたけしの本名を知らなければ、代入してつくられた文は彼には受け入れることができない文なのである。

 事実についての文だけを考察の対象にすることは、真理を探究する人にはこの上なく信頼できることなのだが、「Apを信じる、Apを欲する、Apを疑う、Apを知る」といった命題的態度を含む文では、推論がブロックされて結論を導出できないことになる。

 私たちの日常での推論は事実に関する推論だけでなく、多様な命題的態度を含んだものである。命題的態度のような心的な態度だけでなく、「…すべきである、…を望む。…を嫌う」といった様相、願望、好み等も含んでいる。

 これが示すのは心的世界が魑魅魍魎の世界ということである。科学的な知識や事実だけの世界と人々の心の働きを含んだ世界はその複雑怪奇さにおいてまるで違っているという印象を与える理由はこのようなものなのである。