心が関わると何がどのように変わるのか

  私たちの現実の世界をモデルにして心の振舞いを考えることは今の私たちには到底無理なので、単純この上ないモデルについて思考実験をしてみましょう。まずは世界のミニチュアとして「自然数からなる」世界をモデルにしてみましょう。この単純で明解な世界には自然数だけが存在し、0から始まり、1,2,3、…と続いている世界です。そして、それ以外の対象は何もありません。その世界の事実は自然数論の言明として表現されます。その世界について「知る」ことは知る主体のメタの操作であり、明示的には表現されないのが自然数論の世界です。以前の例を使えば、次のような論証に登場する個々の言明が自然数からなる世界についての事実の記述です。

 

4は3より大きい。

4は8の半分である。

よって、8の半分は3より大きい。

 

 知る主体の心の動きをこれに加えてみましょう。そこで、「知る」を自然数論の言明と組み合わせて言明をつくることを許すことにしましょう。さらに、「知る」の主語の候補として、「神」、「数学者」、「小学生」の三者を考えてみましょう。  自然数論の言明を第1階の言明、「知る」を1回使ってできる自然数論の言明を第2階の言明、n回使ってできる言明を第(n+1)階の言明と呼ぶことにしましょう。そこで、小学生のA君について次のような言明をつくってみましょう。

 

A君は4が3より大きいことを知っている。

A君は4が8の半分であることを知らない。

だから、A君は8の半分は3より大きいことを知らない。

 

これら言明はそれぞれ第2階の言明です。まず、神が自然数の世界でどのように事実を捉えるか見てみましょう。神は全知全能ですから、例えばゴールドバッハの予想「6以上の任意の偶数は、二つの奇素数の和で表せる」についてその答えを知っています。その他の未解決の問題についても神にはそれが真か偽かわかっています。神にとっては、自然数の世界の事実とそれについて知ることは完全に一致していることになっています。ですから、

 

4は3より大きい。

神は4が3より大きいことを知っている。

 

これら二つの言明は同じ言明になります。神は認知に関して無知なのです。あることとそれを知ることが一致しているというのが神なのです。これはまた、神については高階の言明は第1階の言明にスムーズに還元されることを意味しています。神の心の働きは世界を変えることはなく、無害なのです。

 これで神の「知る」は解決と思われそうなのですが、実は自然数の世界であってもゲーデル不完全性定理は成り立っていますので、必ずその真偽を証明できない言明が存在することになっていて、神が適用外だとすると、私たちには神の知り方(認知方法)がわからないということになります。

 次に、数学者はどうでしょうか。数学者も神に似て、「知る」をできるだけ使わずに自然数についての言明、つまり第1階の言明だけを使うことに徹しようとします。第1階の言明の中には真偽がわからない、いわゆる未解決の問題がたくさんあります。それらの解決が数学者の仕事ということになります。そんな中で、哲学好きの数学者が高階の言明に関心をもつのです。それらは「知る」やそれに類似の認識に関わる表現を含んだ言明です。

 さて、最後は小学生の場合です。神や数学者は直観や論証によって言明を扱うのですが、小学生の場合は「知る」の実証レベルでの検証が必要になります。

 

A君は4が3より大きいことを知っている。

A君は4が8の半分であることを知らない。

だから、A君は8の半分は3より大きいことを知らない。

 

これら言明の真偽はA君に直接確かめなければわかりません。A君が悪意をもって騙そうとするかも知れませんから、うそ発見器を使うことになる場合もあります。神や数学者の場合に現れなかった「知る」の本来の姿がここに現れてきます。「知る」は哲学的な思索から現実的な手練手管に変わるのです。このように考えると、小学生になって急速に増える認知的な言明とその実証テストは、確かに高階の言明が複雑でわかりにくいことを示してくれます。ですから、上の各言明の真偽ではなく、それらの意味や使い方が認知心理学の問題として実証レベルで研究されることになります。

 以上が三者三様の「知る」ことの違いです。さて、ここからが肝心なことですが、その複雑さの途轍もない増加によって、自然数論の定理が増えるかと問われれば、ほとんど増えないのです。つまり、自然数論に「知る」という述語が加わっての世界の拡大は自然数論自体には何の積極的な貢献もしないのです。でも、自然数論の学習については相当の貢献をするはずです。子供たちが効率よく自然数について学習するための方法には大いに寄与するはずです。繰り返せば、心の働きの代表が何かを「知る」ことであり、それをつけ加えた上述の自然数論+「知る」では、その知ることの働きが具体的に想像できます。でも、心を知るためのこのモデルは自然数論自体には何の貢献もしません。

 これらのことから出てくるのは、「私が知る」という心の本質的な機能は知識の獲得に大した貢献をしていないということです。それどころか、単純明解の第1階の言明に高階の言明を混ぜ合わせて混乱を生む方が圧倒的に多いのです。自然数のモデルだけからでも、認識や信念に関する分析は暗礁に乗り上げること間違いなしということになります。だから、実証的なテストということになるしかないのです。「知る」ことの分析を実証的なテストに委ねることは、心の働きを実証的に明らかにすることを意味しています。

 自然数の代わりに物理的な対象からなるモデルとそれに「知る」が加わった高階のモデルも容易に想像できます。自然数の場合とほぼ同様に、「知る」は物理モデルの第1階の言明を知るには必要でも、それは通常はメタレベルのものとして表には出ません。また、「知る」を含む高階の言明は混乱を引き起こすだけのものです。