神の存在証明から(1)

  トマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1225-1274)はアリストテレス哲学を巧みに使ってカトリック神学をつくりだした巨人である。彼は神の存在証明を5通り(「5つの道」と呼ばれる)示したが、その最初の証明である運動からの証明を見てみよう。

 

[証明]

前提1:動くものがある。

前提2:動くものは他のものによって動かされる。

それゆえ、何かを動かすものがそれ自身動くなら、それは第3のものによって動かされなければならない。 それゆえ、動かすものの無限の系列があったなら、最初に動かすものはなく、動かすものは全くなくなるだろう。 それゆえ、動かすものの無限の系列はあり得ない。

結論:最初の自らは動かないで、動かすものがある。

 

 この証明が正しいなら、結論に登場する最初の動者という性質をもつものがあることになり、運動の第一原因としての神の性質が証明されたことになる。一見すると反論するのは難しいように見える。動者の系列を辿っていくと最初のものに行き着き、それは最初のものであるために他のものから動かされることがない。動かされるなら、最初のものではなくなるからである。「動かすものの無限の系列があったなら、最初に動かすものはなく、動かすものは全くなくなるだろう」という文がこれに対応している。この文が正しいなら、上の証明は前提を認める限り成立する。したがって、この文の真偽が証明の鍵を握っていることになる。

 ここで、無限についての知識を活用してみよう。私たちは自然数や実数が無限個あることを知っている。そこで、まず自然数を考えて、各自然数が動者に対応しているとしてみよう。動くものをnにして、それを動かすものをn-1、さらにそれを動かすものをn-2という風に、次第に遡及して行ってみよう。すると、最後に0に到達し、それ以上は遡及できない。この0が不動の動者に対応する。これが私たちに反論が難しいという印象を与えていたものではないだろうか。だが、ある自然数nから遡及するのではなく、n+1を動かすもの、そしてそれを動かすものをn+2という風に考えて行くとどうなるだろうか。すると、いつまで立っても最終の到達点はない。というのも、自然数は無限だからである。自然数の系列をこのように解釈するなら、これはアクィナスの証明に対する反例となる。

 さらに、適当な正の実数を考え、その実数から次第に0に近づく実数の系列を想像してみよう。0から1までの線分が格好の例となる。0から1まで実数が連続して並んでいる。線分内の個々の実数が動者であると仮定して、上の証明を当てはめてみよう。0から1までは無限の系列であるが、明らかに最初のものが存在する。それは0である。これは「動かすものの無限の系列があったなら、最初に動かすものはなく、動かすものは全くなくなるだろう」という文に対する反例となっている。したがって、この文は正しくなく、この文を含む証明全体も正しくないということになる。閉区間 [0, 1] には確かに0という出発点がある。これは出発点を保証して、かつ無限の動者の系列をつくることができることを意味している。この点で、結果としてアクィナスの証明を補強するのに使うことができる。一歩一歩では到達できないが、出発点は存在する場合があるのである。だが、半開区間 (0, 1]を考えたらどうなるか。0はこの区間に含まれないので、この半開区間に出発点はない。aが出発点なら、a/2が存在して、それはaより小さくなってしまい、aは出発点ではなくなってしまう。無限の系列は存在し、動者を遡っていくことができるにもかかわらず、最初の動者、つまりは第一原因には到達できないのである。これも別の意味で「動かすものの無限の系列があったなら、最初に動かすものはなく、動かすものは全くなくなるだろう」という文の反例となっている。

 このように現在の私たちは簡単に証明の誤りを指摘できるが、それが可能なのは「無限」概念を使っているからである。無限が承認できないのであれば、このように簡単に処理することはできない。無限の承認の是非が二つの時代(アクィナスと私たち)を分けている。形而上学を通じてこの違いを垣間見てみよう。

 形而上学は哲学の研究分野の一つで、実在や自然の本性を研究する。私たちは論理学の開祖としてアリストテレスに言及した。そのアリストテレスの名を有名にしている今一つのものが形而上学である。形而上学は英語でMetaphysicsである。物理学はPhysicsである。「メタ」という表現は最近よく登場するが、「~ の後に、次に」という意味である。Meta-physicsは、したがって、「物理学の後で研究するもの」という意味になる。実際、アリストテレス形而上学は自然についての個々の知識を習得した後で、自然の基本的な本性について一般的に研究するものであった。このような語源的な説明で形而上学が何であるかわかるものではないが、その歴史は自然に関する哲学と深く結びついていた。この自然哲学の傾向はニュートン(Isaac Newton, 1642-1727)の物理学を通じて物理学の基礎的な概念の追求となって現在にまで続いている。また、アリストテレス形而上学カトリック神学に取り入れられたため、神と自然や人間の関係についての一般的な考察にも多くの研究が費やされてきた。そのような研究の代表例が神の存在証明であり、それは次のようだった。

 世界の出来事が無限にないことを仮定し、どのような出来事にも原因があり、その原因にはまた別の原因があるという具合に、原因を遡及する系列を考えた場合、それは無限に遡及できないことから、それ自身では他のものによって引き起こされない第一原因がなければならないことになる。この第一原因は世界の中の出来事を引き起こすのであるから、世界の中になく、そのような第一原因を性質としてもつものがなければならない。それが神である。

 

*神を信仰することは、神の存在証明とどのような関係にあるのか。信仰をもつなら、その対象である神は存在し、証明する必要などない、と考えれば、信仰するゆえに、神は存在することになる。それとも、神が存在するゆえに、私たちは信仰をもつことができるのか。あるいは、それらのいずれでもないのだろうか。