謎を含んだ決定論(1):教科書版

その前に
 古典力学をベースに対象の運動変化を考えると、その対象に運動中決定していない状態があるというのは考えにくい。時空が決まれば、運動する対象の状態、つまり、対象の力学的な物理量は特定の時刻と場所で決まっているというのが大前提である。実際、対象の状態が特定の時刻と場所で決定していれば、いつでもどこでもその状態は決定されている、そしてそれを知ることができるというのが力学的な決定論の主張である。
 ところで、シュレーディンガーの猫の「生きているか、死んでいるか」がわからない状態はこの力学的な決定論の反例になっている(原理になっているのがハイゼンベルク不確定性原理)。猫は運動していないが、猫の生存と死亡は確かに猫の状態変化である。どんな見事なマジックであっても、箱の中のボールは赤いか赤くないかのいずれかに決まっている。だから、それを超える超絶マジックとなれば、箱の中のボールの色は決まっていない状態にあるということになるだろう。
 このような例がもたらすのは、決定論的でない状態は考えることができないような、理不尽な状態だということである。確かに箱の中のボールの色はわからなくても、ある色であることが決まっていて、私たちはそれを知らないだけであると誰もが考える。存在や性質は決まっているが、それらをすべて知らないことが「決定していない」という判断をもたらす、と考えるのが保守的な古典主義者の立場である。

では、教科書版の始まり
どんな出来事にも原因があるというのが因果的な決定論の原型である。この形而上学的な主張はニュートンの力学によって、物理世界の決定論として精巧に仕立て直された。ニュートンの決定論の洗練された形はラプラスの魔物(物理学者ラプラスが思考実験で考えた架空の万能者)によって見事に表現された。ラプラスの決定論は、すべての事象は原理上正確に予測できるという普遍的決定論 (universal determinism)である。原理上予測できない事象はなく、例外は許されない。だから、予測できない事象があったとすれば、それは私たちの無知のためである。だが、これは私たち自身の予測を含めた思考が決定論の範囲内にあれば成立しない(なぜか?)。それゆえ、「知る」ことは世界の中にはなく、世界は私たちが知る、知らないということとは独立している。確率は物理世界にはない私たちの無知のゆえに導入される。ある事象がどのくらいの確率で起きるかということは決定論的世界では意味をもっていない。決定論的世界ではどのような事象についてもそれが起きるか、起きないかのいずれか一方しか成立しておらず、起きるなら、それは確率1で起き、起きないなら、その確率は0である。

*確率は誰もが学校で学び、計算にも上達し、うまく使うのだが、「サイコロを投げて3の目が出る確率が6分の1である」という言明が何を述べているのかということになると、しどろもどろになる場合が多い。この言明は一体何を意味しているのか、自問自答してみてほしい。そして、以下の文章に進んでほしい。

 私たちはコイン投げやサイコロ振りを確率的な出来事の典型例だと考えている。実際、公平なコインは表、裏の出る確率が1/2とみなされ、それをもとに確率モデルがつくられる。このような確率的な出来事は私たちの生活に馴染んでおり、公平な選択のためにコインやサイコロが使われ、時には賭けの道具にもなっている。しかし、ニュートン的な決定論が正しいとしたら、ある公平なコイン投げの表か裏かの結果は決まっていないのだろうか。このような疑問に答えるためにラプラスの魔物に登場願おう。
 ラプラスの魔物はコイン投げについての完璧な知識をもっており、投げられるコインの物理的な運命について完全に予測できる。魔物によれば、人間はコイン投げについて十分な物理的知識がなく、正確な予測ができないために、その過程が確率的に見えるに過ぎない。魔物はコイン投げで生じるバイアス(非対称性)は決して見逃さない。コインを投げるときの物理的な状態のバイアスが何であるかを的確に知り、それが結果にどのようなバイアスを生むかを正確に予測できる。コインを投げて裏か表が出たということは、その結果にバイアスがあったということであり、それは原因であるコイン投げのどこかに最初からバイアスが潜んでいたためである。これは理屈の通った話に思える。というのも、この話は既に述べた対称性の原理の一例なのである。対称性を因果的決定論に適用すると、

結果に現れる非対称性は、原因がもつ非対称性によって引き起こされる、

と表現できる。この原理が成立している限り、魔物は原因のバイアスに注目することによって結果の裏、表というバイアスの予測を物理学的に行うことができる。
 以上のことから、魔物は物理的な状況に関して予測ができ、確率などに頼らなくても、個々のコイン投げを一回毎に正確に予測でき、したがって、すべてのコイン投げの系列について正確な予測を行うことができる。つまり、魔物にとってはコイン投げの過程は全く決定論的である。それゆえ、確率の使用を主張・擁護するのは誤っており、自然の過程に確率的なものは何ら含まれていないことになる。
この説明によれば、確率は私たち人間には不可避的に必要であるが、それは私たちが十分な知識をもたないために過ぎない。これが確率の主観的な解釈である。私たちが確率概念を使う理由は私たちの無知のためであり、十分な知識をもっていれば確率などに頼る必要はないのである。
さらに現存する確率的な科学法則についても、それは現象的な法則であり、時間対称的な物理学の法則とは違って派生的なものに過ぎないと魔物は結論する。対象の時間発展を述べる法則は厳密な意味で法則ではない。そもそも確率が無知の反映であるから、それを使っての確率的な法則は法則と呼ぶに値しない。幽霊はどこにも存在しないが、考え出された多くの幽霊についての一般法則はつくろうとすればできる。統計法則はそのような類の法則であるというのが魔物の結論である。ちなみに、現象的と言われる法則にはエントロピー増大の法則やメンデルの遺伝法則がある。

 ラプラスの魔物は、初期状態を正確に測ることができ、未来の予測のためには瞬時に完璧な計算ができなければならない。元来、決定論は実在の決定性を主張するものであり、私たちの認識とは何の関係もない。その決定論と予測可能性を同一視させる理由は古典力学の第2法則にある。第2法則と、微分方程式系の解が存在して、しかもその一意性を保証する定理とが結びつくことによって、系の初期条件が定まれば正確な予測が可能であることが数学的に証明できる。これによって現在の状態から演繹される未来や過去の状態が存在するということが保証される。さらに、この決定論は上の予測が実際に構成的に計算可能であるという定理によって強化される。ただ単に予測が可能というのではなく、実際に予測を計算できる。こうして古典的な決定論は予測可能性と同一視されることになる。そして、このような決定論=予測可能性という認識的な決定論理解が、ラプラスが魔物に対して与えた役割である。
 このような魔物の主張は私たちの行為にも当てはまるのだろうか。人の行為の予測は大抵できないが、それは私たちの無知のためだけなのか。ここで、決定論と運命論 (fatalism)の区別が重要である。物理世界が存在し、ある時点の状態がわかっていれば、ラプラスの魔物にとって古典力学が主張する決定論は運命論である。決定論は、過去が異なっていたとすれば、現在も異なっていただろうという考えを排除しない。決定論はまた、現在私がある仕方ではなく別の仕方を選ぶならば、私は未来に起こることに影響を与えることができるという考えも排除しない。しかし、運命論はこれを否定する。現在あなたが何をしようと過去と未来はそれとは無関係であるというのが運命論の主張である。つまり、決定論と運命論はほとんど正反対のことを主張している。運命論は私たちの信念や欲求が無力なことを主張するが、決定論では信念や欲求は因果的に私たちの行動をコントロールできることが主張されている。

(問)あなたが「これから(問)を考える」ためには決定論がどうして必要なのだろうか。その際、運命論が成立していると「これから(問)を考える」必要はあるだろうか。

 ラプラスのような決定論的自然観を今の私たちはもっているだろうか。原理上その通りと答える人であっても、その原理は実現できないと考えていないだろうか。決定論的自然観は古典力学の一つの解釈であり、今ではそれが成立しないことが知られている。