確率と無限:常識を疑えば、何が見えるか

 人が好奇心をもたなければ、謎に満ちた世界はどこにもない。好奇心をもって世界を眺めると、世界は謎だらけの興味深い対象に変貌する。人が何の関心も興味ももたなければ、世界は惰性的な塊に過ぎなく、心躍る神秘的対象にはならない。謎に満ちた世界は好奇心旺盛な心にしか出現しないのである。
 確率は確からしさを表す物差し(尺度、測度)として使われている。確率を使って扱われてきた典型的な出来事と言えば、コイン投げやサイコロ振り、明日の降水確率、賭けや博打等がある。誰もがそれら例を確率的だと信じて疑わない。確率はコイン投げや天気予報で当たり前に使われているので、そこには何の疑問もないようにみえる。だが、そこには実に多くの謎が潜んでいる。ここでは謎の宝庫の中から二つだけ取り上げ、次のような問いの形で考えてみよう。

(1)コイン投げ(やサイコロ振り)は確率的な出来事か。
(2)確率が0であるとは、起こり得ない出来事の確率か。

 確率はどのような仕組みを使って表現され、計算されているのか。コイン投げは「表」と「裏」という、二つの異なる結果をもっている。誰が、いつ、どこで、どんな風に投げるかは一切問わず、「公平な」コインが「公平に」投げられるという理想的な場合が前提にされて、コイン投げのモデルがつくられている。
 1回コインを投げた場合、その結果は、表、裏の二つだけである。これら結果は出来事、事象(event)などと呼ばれている。公平なコイン投げなら、表と裏の結果の出方に違いを見つけることができないため、普通は表と裏に等しい確率を与える。しかも二つの場合しかないので、「表が出るか、裏が出るかのいずれかである」という(いつでも正しい)出来事の確率は1でなければならず、裏と表、それぞれには0.5という等しい確率値を与えることになる。では、2回続けて投げるとどうなるのか。その結果は、出る裏表の順序も区別するのであれば、表表、表裏、裏表、裏裏の4種類になり、そのうちの一つの結果だけが実際に起こる。前と同じように4つの場合に差がなければ、各場合が生起する確率は1/4になる。
 では、コインが公平でない場合はどうなるか。例えば、裏が出やすく、表が出にくい場合、次のように確率値を割り振ることができる。表:1/4 裏:3/4。こんな確率値でコイン投げを計算したことはないだろうが、計算はできるし、これが正しいようなコインを実際につくることもできる。不公平なコインは珍しくないが、では全く公平なコインはあるのだろうか。「公平なコイン」は「三角形」と同じようにこの物理世界には存在しない。そのため、公平なコインを所持する人はいない。
 今まで述べてきたことは目新しいことではなく、既に学校で教えられ、世間でも常識として認められてきた考えである。そこで、この考えが本当に疑いのない正しい常識なのかどうかを調べ直してみよう。まず、普通にコインを投げるのはピサの斜塔の上からコインを投げるのと何ら変わらない。ガリレオアリストテレスの運動の法則が誤りだと経験的に示し、正しい落体の法則を確立したのと同じように考えれば、コイン投げは落体の法則に従う力学的な出来事、つまり、物理的な運動である。それゆえ、コインが地面に落ちて表か裏になるのは、実際に投げる前に運動の法則を使って計算できる筈である。実際の計算は空気抵抗や最初に加える手の力などを考慮しなければならず、大変難しいものである。だが、原理上は確率的にではなく、(運動方程式を解く)計算によって確定的に求めることができる。コイン投げはピッチャーがボールを投げるのと同じような力学的な出来事である。したがって、コイン投げは古典力学が適用される典型例で、確率を使う理由などどこにもないことになる。にもかかわらず、なぜ確率を使ってコイン投げを取り扱うのだろうか。
 様々な条件をしっかり考慮して力学的なモデルをつくることが難しいというのが第一の理由である。それに確率モデルは比較的うまく結果を予測してくれる。将来起こる出来事は原理上計算できるとしても、実際は情報不足で正確なモデルがつくれず、それゆえ、計算できない場合がほとんどである。実用の上からも確率的なモデルが重宝される。そのため、予測や説明のための便宜的な道具が確率ということになる。
 たとえ原理上であっても古典力学の世界ではすべての出来事は確定的である。知らない過去の出来事も起こっていない未来の出来事も起こるか起こらないかのいずれかであって、ある時点の状態がわかっていれば、それらを計算することさえ可能である。したがって、確率的な出来事などそもそもこの世にないことになる。すると、そこに確率を使って確定的でない出来事を考えることは力学の基本的な前提に矛盾することになる。古典力学の世界ではどんな出来事も確定的で、曖昧でぼんやりした出来事や、何%の確率で起こる出来事といったものは存在しない。
 では、私たちの周りで使われている確率をどのように考えたらいいのか。これが確率の解釈問題と呼ばれてきたものである。確率について色々な解釈がこれまで考案されてきたが、ここでは代表的な二つの解釈だけ説明しよう。それらは次のような解釈である。
(a)頻度解釈(客観的解釈)
 コイン投げは何度もコインを投げて、その結果の総計から表、裏が公平な場合にはほぼ50%になるということを確率を使って説明できる。1回だけのコイン投げではなく、多数回コインを投げたときの頻度、割合が確率の値である。それゆえ、確率の値はグループや多数の繰り返しがもつ(一個や一度ではわからない)性質を表現している。
(b)認識解釈(主観解釈)
 コイン投げは古典力学で扱うことができる出来事である。古典力学は運動の法則を使って出来事が確定的に起こることを主張しているので、確率的な出来事はこの物理世界にはどこにもあり得ないことになる。この世界での出来事はすべて確定的で、確率的ではない。確率を使ってコイン投げを考える時の確率は、したがって、この世界の出来事についての確率ではなく、私たちがコイン投げの結果を心の中でどの程度信頼しているかを表現する確率である。心の世界は物理的な世界ではないので、そこで確率を使っても何ら問題は生じない。確率とは、それゆえ、出来事についての情報がもっている信頼度である。
 ここまでが(1)についての話だが、次に少々ややこしい(2)に挑戦してみよう。それは「有限」と「無限」の違いが絡んだ謎である。砂浜の砂粒や砂糖の粒子はどんなに多くても有限である。この世界に無限のサイズをもつ対象はない。それゆえ、無限の例をこの世界で探しても見つからない。そこで、無限の例として(この世界には存在しない)自然数の集まりを考えてみよう。有限の場合と違って、いくら自然数を数えていっても終わることがない。限りなく数え続けなければならず、これは人間にはできないことである。実際にできなくても、人間は自然数をすべて集めて、一つの集合をつくることを心の中で簡単にできてしまう。私たちの思考は物理的な事柄に縛られることなく、いつでもそれを容易に超えることができる。それこそが考えたり、想像したりすることの魅力になっている。では、自然数でなく、実数ならどうだろうか。実数は自然数を含んでいるから、その個数も当然無限個あることがわかる。では、自然数と実数は同じ個数の数を含んでいるのか、それとも異なる個数なのか。二つの集合が同じサイズであるとは、二つの集合の要素の間に1対1の対応関係があり、しかもその関係に漏れる要素が一つもないことである。
 この1対1の対応関係を使うと、偶数の集合と自然数の集合は同じサイズをもっていることがわかる。だが、奇数と偶数の集合は自然数の集合の一部に過ぎない。このような奇妙なことは有限の集合の場合には決して起こらない。有限の自然数の中には偶数は半分しかない。無限はサイズの大きい有限ではない。例えば、無限の集合について「全体は部分より大きい」という言明は誤りである。というのも、自然数全体と偶数の集合は同じサイズをもっているからである。
 では、実数はどんなサイズの無限集合なのか。実数のお馴染みのイメージは数直線。0から1までの数直線(線分)を考えてみよう。数直線上の個々の点が0から1までの実数に対応している。実数の集合のサイズを直観的に言えば、「連続している」という性質を満たすサイズである。有理数は連続していないが、無理数は連続している。さて、0から1までの数直線上の任意の点を取ったとき、それが有理数である確率は何か、と質問してみよう。頻度でも信頼度でもいずれで確率を解釈しても、確率の計算方法は同じなので、計算してみよう。有理数は無限個あるにもかかわらず、計算結果は0。何と有理数をピックアップする確率は0なのである。
 この計算結果から、「確率0である理由は有理数が0から1の間にないからだ」と言えるだろうか。そんな主張はできない。有理数は存在しないどころか、0から1の区間には無限個存在するからである。それでも、無限個ある有理数のどれか一つをピックアップする確率は0である。ここから得られる教訓は、「確率の値が0であることは、その出来事が起こり得ないことを意味していない」ということである。ある出来事が絶対に起こらないなら確率は0だが、確率が0だからといって、その出来事が起こらない、とは言えないのである。つまり、「ある出来事が起こることが不可能なら、その確率は0だが、ある出来事の確率が0でも、それが起こることは不可能ではない」ということになる。有限の場合には、出来事の生起が不可能であることとその出来事の生起の確率が0であることとは一致する。だが、無限の場合はそのような常識的な一致は破れてしまう。これが(2)への解答である。