脱人間中心主義への人間中心主義的偏見

 「脱構築」という何ともハイカラな訳語が一世を風靡したことがあった。つまるところ、「常識を疑う」という程度のことなのだが、「脱原発」となると生々しい政治課題となり、議論の絶えない重大な事柄である。そんな中で「脱」の究極となれば、「脱人間」。だが、人が「人間であることを疑い、壊し、非人間的に人間を理解する」ことなど人には到底できそうもない。人は人の観点からしか世界や人を理解できないというのがヒューマニズム、つまり人間中心主義である。
 人間中心に物事を考えるということは、人の本性に根ざした習性のようなもので、それを脱することなど到底できないというのが私たちのとりあえずの判断である。その判断の根拠は、「人間の本性(Human nature)の一つは人間らしく考えることである」というほとんど自明な言明を真だと信じるからである。私たちは徹底して自己中心的で、それが証拠に私たちの歴史は徹底して人間が主人公の歴史なのである。そのため、人間のいない歴史、社会、文化、法律等々、それらはすべてナンセンスと思われてきた。「人間の、人間による、人間のための」という謂い回しはそれをいみじくも表していて、正に人間中心主義そのものを言い当てているのである。
 人がつくった庭園が人の匂いに満ちていて、自然とはまるで違うものだということは、シベリアやカナダの自然を垣間見れば納得できるのではないか。花鳥風月、雪月花などは徹底して人間的な人工的自然の象徴的表現であり、人が考え、味わう自然である。それは中国からの輸入であり、人が関わらない自然はなく、自然と人工の区別そのものがなかった証拠でもある。
 風景、光景、景色は自然というより、自然の人間化である。私たちの解釈など許さず、受け付けない自然はなかなか見つからない。大きなスケールの宇宙の一部やミクロの世界でも私たちは自己流に解釈しようと躍起になる。私たちは自然そのものと人間的に解釈した自然との区別ができないほどに自然を人間的に見つめている。
 地球環境への関心が高まり、温暖化防止の活動や原発の廃止等の運動が高まり、持続可能性という概念が宙を舞っている。そこで、次のような三つの事柄について考えてみよう。

地球を救う
人を救う
自分を救う

これら三つの事柄の中で、私たちはどれを優先すべきなのだろうか。伝統的で、常識的な優先順位は、自分、人、地球の順である。時々は自分と人の順番が入れ替わることがあり、それが特筆すべきこととして称賛される場合がある。いわゆる、自己犠牲によって、自分より他人を優先することである。だが、自己犠牲によって地球を優先しようとは、現在の常識のもとでは誰も考えもしない。「君は地球のために死ねるか」という問い自体が奇妙に響く。
 だが、「救う」ことの順位を合理的に考えるなら、地球を救えば、人が救える、人を救えば、自分が救える。つまり、自分が救えないと人を救えず、人が救えないと、地球は救えない。まず、地球が確実に存在し、そこで人の命や生活があり、その中で自分の生活が保障されるのである。だが、私たちはこのような非人間的な見方、俯瞰的な見方を通常はしない。つまり、私たちの見方そのものが人間中心的なのである。地球が存在してこその人であり、人が存在してこその自分であるとは考えにくいのである。私たちの根本的判断は人間的な判断であり、非人間的な判断を排除するのである。
 「人間をやめろ」と言うのが釈迦の解脱だとすれば、脱人間中心主義の本家は釈迦であろう。彼こそが最初に人間をやめることによって救われると考えたのかも知れない。それは凡人にはできない相談というもので、脱人間などは不可能だというのが通り相場。実際、私たちはいつも快不快、愛憎をもち、一喜一憂しながら生活している。そのこと自体が人間中心主義の肯定である。社会は一種の人工楽園であり、環境保全も人が生き残るための環境の保全であり、人間のための自然保護、環境保全でしかない。その意味で人は正に生物界の厄介者であり、解脱のような脱人間中心主義とは程遠い存在なのである。