脱人間中心主義と相対的人間中心主義

(前回の「脱人間中心主義への人間中心主義的偏見」の後に)
 前回の議論では、人間は救いようがない人間中心主義者だということになり、釈迦ででもない限りは出口なしということだった。そして、人間中心主義は人間には避けることのできない運命だという結論になった。これでは余りに望みなしの結論で、どこかに救いの手立てはないのかと考えてしまう。そこで、人が神になったり、神を信じたりしなくても、救いの手立てがあるとすれば、それはどのようなことをこれから見てみよう。
 言語を使うことは私たち人間だけに特有なことであり、それゆえ、言語によって表現されるものは正に人間中心主義的になる。一方で、20世紀以来自然言語ではなく、形式言語を使って物事を表現し、計算することが、特に科学の領域で普及してきた。この形式言語は生得的なものではないことから、「非」人間中心主義的だと言えなくもない。知覚も人間特有の形式や内容をもち、人間中心主義の根拠となってきた。他方、実験装置、観測器具は生得的な情報獲得装置としての知覚とは一線を画し、やはり「非」人間中心主義的と言えるのではないか。それゆえ、知覚像と客観的な対象とは同じではなく、知覚像は極めて人間中心的な情報だという従来の決まり文句に対して、実験や観測のデータの情報はそうではないと主張されることになる。つまり、言語も知覚も人間中心主義を代表していて、それを具体的に表現する手段になっているが、形式言語や実験観察の装置は非人間中心主義の例になっているという訳である。
 生き物に生得的なものはどれもその生き物中心の結果をもたらす。つまり、言語も知覚経験も人間中心の結果をもたらすのである。だが、私たちは人工的に言語、装置、機器を作り出し、人間中心的でない情報収集の方法を生み出し、それらに言語や知覚の補完以上の役割を与えている。
 哲学・思想の領域では主観主義や客観主義がいつも議論されてきた。「あれかこれか」となると、その代表が大抵の場合、主観と客観のいずれかという問いだった。では、主観と客観の二つの間には本当に何もないのだろうか。そんなことはなく、「間主観性」という言葉があり、主観的ではないが客観的とまでは言い切れないことを形容して間主観的と言い、意外によく使われてきた。社会、文化、歴史などの領域に登場する多くの概念や対象は物理的な対象とは言えず、だから主観的と言うにはあまりに公共的で心的な対象とは言えない、そのようなものが多く、それらが「間主観的」と呼ばれてきた。また、「相対的」と言う言葉も似たような意味で使われる場合がある。だから、間人間中心主義、相対的人間中心主義は脱人間中心主義と人間中心主義の間にあると言うことができる。こうして、主観と客観の間にはほぼ連続して様々な存在形態が認められることになる。これは、本物と偽物の間にも連続的な程度の差があることを認めるようなことでり、すべての人が賛成するものではないが、大抵の人が容認するものである。
 人はみな違っていて、個性がある。だから、同じ対象や出来事に対して、人が違えば、異なる受け取り方がなされる。これが、いわゆる複眼的な視点、立場である。人間中心的であることに変わりなくても、そこには違いがあり、時にはその違いが大きく、ほとんど対立するような場合が出てくる。そして、私たち人間はそれら異なる立場を理解することができる。だから、「複数の座標軸」、「多世界」と言った概念を認め、異なる考えの併存を認める。「異なる国、異なる地域での異なる環境問題」といった設定が認められ、環境保全のために相反する施策が打ち出される場合が出てくる。人為選択と自然選択が併用され、さらにそれらの混合さえ実行される。
 多様性の容認と導入は人間中心主義を相対化し、相対的人間中心主義へと色を薄めるような効果をもたらすのである。人間を超越する、脱することが脱人間中心主義だとすれば、ここで述べてきたのは非人間中心主義、相対的人間中心主義であり、人間中心主義と脱人間中心主義の間に様々に位置するものとなる。
 このような議論の結末は、「何ともいい加減な…」という印象を残すだけだが、その印象こそが人間中心主義的印象なのだろう。人間が自らを見つめ直す場合にいつも共にあるのがこのような曖昧な色合いであり、白黒の決着がなかなかつきにくいのである。