「哲学の議論とはどのようなものか」2

現場の問い「コイン投げは確定的、それとも確率的」に対する解答例

(3)生物学者に対する古典的無知からの反論

 ラプラスの魔物はコイン投げについての完全な知識をもち、投げられるコインの物理的な運命について完全に予測できる。魔物によれば、生物学者はコイン投げについて十分な物理的知識がなく、正確な予測ができないために、確率的にしか捉えることができないのである。生物学者と違って。魔物はコイン投げがもつバイアス(非対称性)を決して見逃さない。「コインを投げて裏か表が出た」ということは、その結果にバイアスがあったということであり、それは原因であるコイン投げのどこかに最初からバイアスが潜んでいたためということになる。これは理屈の通った話に思える。というのも、これは実は物理学の基本原理であって、対称性の原理(Principle of Symmetry)と呼ばれてきたものの一例なのである。その原理は、 結果に現われる非対称性は、原因がもつ非対称性によって引き起こされる、 という主張である。この原理が成立している限り、魔物は結果の裏、表というバイアスの予測を原因のバイアスに注目し、それを使うことによって物理学的に説明できるのである。

 以上のことから、魔物は確率などに頼らなくても、個々のコイン投げを一回毎に正確に予測でき、したがって、すべてのコイン投げの系列について正確な予測を行うことができる。つまり、コイン投げの過程は全く決定論的である。それゆえ、自然の過程に確率的なものは何ら含まれていないことになる。この説明が確率の主観的解釈(Subjective Interpretation)と呼ばれてきたものを生み出したのである。その解釈によれば、私たちが確率概念を使う理由は私たちの無知のためであり、もし十分な知識をもっていれば確率などに頼る必要はないのである。さらに、メンデル法則が時間的な方向をもつことについても、それは現象的な法則であり、時間対称的な物理学の法則とは違って派生的なものに過ぎないと魔物は結論した。魔物によれば、対象の時間発展を述べる法則とは違って、メンデルの法則は単なる収支決算の報告の仕方に過ぎず、厳密な意味で法則ではない。

 そもそも確率が古典的無知の反映であるから、それを使っての確率的な法則は法則と呼ぶに値しない。幽霊はどこにも存在しないが、考え出された多くの幽霊についての一般法則はつくろうとすれば可能である。遺伝法則はそのような類の規則に過ぎないというのが魔物の結論であった。ラプラスの魔物は、任意の正確さで初期条件を測ることができ、未来の予測のためには瞬時に完璧な計算ができなければならない。これが決定手続きを考えたときの魔物に課せられる条件である。

 元来、決定論は実在する出来事の決定性を主張するもので、私たちの認識や知識とは何の関係もない。その決定論と予測可能性を同一視させる理由は古典力学の第2法則にある。第2法則と、微分方程式系の解が存在して、しかもその一意性を保証する定理とが結びつくことによって、系の初期条件が定まれば正確な予測が可能であることが数学的に証明できる。これによって現在の状態から演繹される未来や過去の状態が存在するということが保証される。さらに、この決定論は上の予測が実際に計算可能であるという定理によって強められる。ただ単に予測が可能というのではなく、実際にそれを計算できるのである。こうして古典的な決定論は予測可能性と同一視され、このような「決定論=予測可能性」という認識論的な決定論理解が、魔物の担ってきた役割なのである。

 

(4)ラプラスの魔物は遺伝の確率モデルを扱えるか?

 (3)の議論は玩具に過ぎないのだが、もっともらしく見える。偏りのないコインであれば、各々裏表の出る確率は1/2 である。このコイン投げを力学的に扱えば、誰がいつコインを投げるか、どのくらいの力でどの方向に投げるか、着地する面や空気抵抗はどうか、等々の多くのことを考慮して、コインが投げられてから着地するまでの軌跡が描かれることになるだろう。仮にそのような力学的なモデルがつくられたとしてみよう。コイン投げの確率モデルはこの力学モデルに還元できるだろうか。(力学)還元主義者の主張はこの還元が可能だというものである。確かに、想像上は可能のように見える。だが、これが誤っているというのがこれから述べることである。コイン投げの力学モデルは想像できるが、コイン投げの確率モデルをその力学モデルに還元することは上手く想像することができない。コインを投げると裏か表が出る。そこで今裏が出たとしてみる。すると、力学の鉄則に従って裏の出た理由は原因に求められる。これは物理学全般に成立している対称性の原理の一例であった。表ではなく裏が出たのであるから、そのバイアスのある結果の源は原因のバイアスにある。裏が出た場合、コインを投げるときの条件に裏を結果するものが含まれており、それゆえ、コイン投げというシステムの時間発展によって裏が出たと考えられる。これが裏の出るコイン投げの初期条件である。ここで忘れてならないのはこのコイン投げは特定のコイン投げであり、1 回毎にその力学的な記述は微妙に異なってくる。2 回目にコインを別の人が投げた場合には、異なるコイン投げの力学的な記述が得られる。とにかく、このようにして私たちはコイン投げの力学モデルを確かに想像できる。このようなモデルとコイン投げの確率モデルを比べてみよう。

 コイン投げの確率モデルは裏と表の基本事象からなっている。これら基本事象の集合を考え、その部分集合の全体が事象を構成し、それら事象に確率測度が与えられている。1 回の偏りのないコイン投げでは各基本事象は1/2 という確率測度をもつ。このモデルはコイン投げの時間発展を述べたモデルではない。コインをいつどのように投げるかといった具体的なことについては何も述べていない。コイン投げの時間的な変化は、したがって、このモデルからは何も言えない。唯一言えるのは、偏りのないコインという記述だけである。 これら二つのモデルは互いに両立するのか。私たちはそれぞれのモデルを想像できるし、その想像は単なる想像ではなく、それぞれ力学、確率論という理論的な裏付けをもっている。地震がどのように起こるかという経緯とそれがどのくらいの確率で起こるかということは両立すると自然に考えられているし、毎日の天気もその時間的な変化とそれが起こる確率は同じように並列的に考えられ、そこに何か矛盾があるようには受け取られていない。その理由は、私たちが力学的なモデルと確率的なモデルを時間をずらして適用することによって両方が同時には適用されないように工夫しているからである。「元旦は晴れる」という事象は元旦以前には確率的な事象と解釈され、元旦、あるいはそれ以後には実現の経緯が記録として書き記されることになる。同時に二つのモデルを併用するのではなく、時間をずらして別々に使うことによって両立させている。もし時間をずらさなかったら、一つの現象に対して二つのモデルがあり、それらモデルは異なることを主張していることになる。一方は決定論的に現象が生じることを、他方は非決定論的に生じることを主張している。一つの現象に異なる二つのモデルがあることに対して次の二つの態度が考えられる。

 

態度1:モデルの一方が正しく、他方は誤っている。大抵の場合、力学への伝統的な信頼から誤っているのは確率モデルであるとされる。そして、その誤りは文字通りの誤りというより、私たちが確率モデルを用いるのは事前に十分な情報をもっておらず、不完全な情報のもとに確率概念を不可避的に用いざるを得ないからであると説明される。

態度2:二つのモデルは私たちの視点の相違であって、両立すると考える。視点の相違は、モデルの全く異なる組み立てから説明される。現象を眺める私たちの視点には今の場合、二つの異なる視点があり、それらは一方が正しく、他方が誤っているというようなものではない。錯視図形を見る際に、一方の見方が誤っており、他方の見方が正しいのではないように、それは単に視点の違いに過ぎない。

 

 二つの態度のいずれに軍配を上げるか、あるいは第三の態度を取るべきか、その決着は確率モデルが力学モデルに還元できるかどうかを考えた上でつけることにする。 (つづく)