「哲学の議論とはどのようなものか」3

現場の問い「コイン投げは確定的、それとも確率的」に対する解答例

(5)公平なコイン
ところで、そもそも偏りなくコインを投げることなどできるのだろうか。もし対称性の原理が成立している中で、裏か表のいずれかが出るのであれば、偏りのないコイン投げは不可能である。なぜなら、裏か表のいずれかが出るということが偏りの存在を含意するからである。これが意味しているのは、確率モデルの設定が力学モデルの設定と完全に異なるということである。したがって、単純に確率モデルを力学モデルに付随させる(supervene)ことはできない。確率モデルと力学モデルの枠組みの違いが単純に一方を他方に付随させることを阻むのである。「偏りなくコインを投げる」ということは力学モデルをどのように工夫してもモデルとして実現することはできない。だが、確率モデルではそれが可能となる。これが枠組みの違いである。確率モデルにおける「偏りなくコインを投げる」という事象は物理的に実現可能なことではなく、私たちの約定(stipulation)だということになる。この約定が経験的に正しいものかどうかは当の確率モデルがコイン投げの実験結果に合うかどうかに依存している。だが、「偏りのないコイン投げ」という初期条件の設定は力学的なモデルのどこにも還元することができない。これだけでも還元可能性に関しては致命的であるが、次の理由も同じように重要である。
 力学モデルは個々のコイン投げについてのものであると述べた。それに対して、確率モデルはどうだろうか。それは何回という指定を明確に含んでいない場合が多いし、コインを投げる順序は普通問題にしない。一方、力学モデルではこれらが必然的に付き纏う。一方は振る順序や回数が曖昧であり、他方はそれらが正確に特定されていなければならない。まるで水と油である。このような二つのモデルの間にどのような還元を考えたらよいのか思いもつかない。
結論に至る前に上の議論への反論を考えておこう。それは次のような反論である。

(反論)
コイン投げに使うコインに物理的な偏りがなく、そして偏りなく投げるという仮定を置くことがそもそもできるのだろうか。もし偏りのないコインの偏りのないコイン投げが、幾何学で定義された三角形が物理的な対象として存在しないように、物理的に存在しないとしたら、確率モデルの組み方自体が物理的に実現可能な組み方に制限され、「偏りなくコインを投げる」というモデルは取り除かれ、物理的にありえないことになる。したがって、力学モデルで「偏りなくコインを投げる」という初期条件がないのはむしろ正しいのではないか。実際にコインを投げる場合、コインの上の面は表、下の面には裏というように非対称の状態からコインを空中に投げなければならない。裏表の区別のあるコインは対称的ではない。確率モデルは偏りのある、非対称的なコインを偏りがないとみなすという点で幾何学的な理想化によるモデルと同様の絵に描いた餅に過ぎない。

(返答)
個々の確率モデルをつくるのに「偏りなくコインを投げる」ということは不可欠でないどころか、モデルの定義上必要でさえない。バイアスのあるコイン投げでも一向にかまわない。バイアスがあれば、それを考慮した確率測度を定めればよいだけである。そのような多様な確率モデルの組み方の中に「偏りなくコインを投げる」場合が含まれているだけである。それが重要であるのは、力学の法則を思い出してみればよい。力学の法則はいずれも理想的な条件の下での法則である。実際には空気抵抗や摩擦、重力のために物理的な状態変化そのものの法則ではない。それはまさに理想化された条件の下での法則である。そのような理想化された法則をもとにつくられるのが力学モデルであった。確率モデルも力学モデルと同じように理想化された場合を考えることに躊躇する必要はない。それどころか、そのような理想化された条件は確率モデルを理論的に扱う際に不可欠である。「偏りのあるコイン投げ」の場合は反論が主張する通り、特定の偏りを初期条件にするような力学モデルをつくることができる。肝心なのは、「偏りのないコイン投げ」という場合が特定の確率モデルでは必要なくても、確率モデル全体について考える際には不可欠であるという点である。

 以上のことは確率モデルを力学モデルに還元することが不可能であることを示している。「偏りのないコイン投げ」に象徴される確率的な事態、特に任意交配についての確率モデルを力学モデルに還元することは不可能である。したがって、情報欠如のみによる確率モデルの使用という考えは否定される。二つのモデルは根本的に異なるモデルであるから、力学モデルの不完全なモデルが確率モデルではない。では、この還元不可能性をもたらしたものは態度2で述べられた視点の相違であろうか。私は視点の相違であると思う。しかし、視点の相違とはそもそもどのようなことを意味しているのか。視点という哲学者にとって都合のよい言葉は視点にまつわる問題の解決を阻んできたように思えてならない。力学モデルと遺伝の確率モデルに執着して、そこでの視点の相違とは何かをじっくり考えてみる必要がある。
 この視点の相違は、自然選択を力学的な力に似たものとし、力学モデルを手本にしたモデルで考える場合と、自然選択をバイアスのかかったサンプリングとし、確率的なモデルで考える場合とに大きく分かれるほどの重要性をもっている。かつて力学と統計力学の間の関係が議論された際、熱力学の第二法則、つまりエントロピーの増大の法則が力学からは導出できず、ボルツマンの自殺まで引き起こした。今議論している事柄はこの問題と共通点が多い。
このような議論はフラストレーションが溜るだけに見える。コイン投げは一体確定的なのか、それとも確率的なのか、なかなかはっきりしない。また、確定的とはどのようなことなのか。確率的とはどのような意味なのか。すべてが曖昧模糊としている。コイン投げという実に簡単な出来事がどのようなものか、それがわからないというのはとても気になることである。

(1)確定的とはどのようなことか
(2)確率的とはどのようなことか
(3)そして、それら二つの違いは何か

これらのことをこれからじっくり考えていかなければならない。このような曖昧な事柄を合理的な論拠に基づき、明晰に議論を展開し、判明な結論を得るというのが哲学のギリシャ以来の伝統だった。その歴史を念頭に置きながら、真相に迫ってみよう。ここまで述べてきた内容は決して誤っていない。曖昧で、ぼんやりしているだけである。それらを予備知識として以後の議論を展開していこう。

(つづく)